【広島東洋カープ】どん底から巨人軍に代わるセ・リーグの強豪へ

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初開幕直後に選手の給料が遅配

しかし、当時の広島総合球場は草野球で利用される程度の施設で、外野にも芝がない全面土のフィールドに杭を立てて縄を張り、外側を観客席にしていた。そのため、打球が外野の縄の上を越えるとホームラン、下をくぐると二塁打(エンタイトルツーベース)になるという変則ルールも。

1953年には相手チームの打者がレフトポール直撃のホームランを打ったところ、「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ!」と怒ったカープファンがポールを引っこ抜くという、他球場では考えられないような事件も起こった。

そんな球場だけに試合のタダ見も横行し、カープ初代監督の石本秀一氏が試合そっちのけで入場券を持たない観客が入り込まないように見張っていたという逸話も残っている。スポンサーとなる企業もなく、タダ見客が後を絶たないとなると、球団財政の悪化は避けられない。

現在は充実した球場を持つカープだが、チーム創設時は全く違った(球団公式ホームページより)

2,500万円を目標とした資本金は1950年4月の時点で600万円しか集まらず、最終的には目標額の半分に止まった。さらに当時の入場料収入は、開催地に関係なく勝利チームに7割、敗れたチームに3割を配分する仕組みだったため、弱小チームだったカープの財政はますます苦しくなる。

開幕直後の5月には選手に支払う給料が遅配。ユニフォームやグローブなどの野球用具一式の代金が払えず、納入業者は倒産したという。球団では大きな樽を球場内のあちこちに置いて、市民からの募金を呼び掛ける「樽募金」を開始。合宿所は、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業<7011>広島製作所)の社員寮を借りるなど、コスト削減に努めた。

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