【広島東洋カープ】どん底から巨人軍に代わるセ・リーグの強豪へ

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広島東洋カープは2018年10月27日からの日本シリーズで、34年ぶり4回目(日本シリーズ出場は8回目)の日本一を目指し、福岡ソフトバンクホークスを迎え撃つ。1950年に特定の親会社を持たない市民球団を源流とする唯一のプロ野球球団だが、それが大きな「産みの苦しみ」につながった。

被爆地に球団を!

戦前から野球が盛んで、広島商や広陵高、呉港高といった強豪校から鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男などの名選手を輩出した土地柄もあって、1リーグ時代から広島でプロ野球チームを結成する構想はあったという。

1949年2月に元読売新聞社長で巨人軍のオーナーだった正力松太郎氏の2リーグ構想が明らかになったのを受けて、中国新聞社や広島電鉄<9033>、広島銀行<8379>、広島県などが新球団の結成に向けて動き出す。

当時は世界初の原子爆弾が投下されてわずか4年後で、爆心地だった市の中心部にはスラム街や闇市が広がっていた。市民の心もすさみ、彼らに健全な娯楽を与えたいとの思いから、地元政官財で球団創設構想が持ち上がったのだ。

チーム名はレインボー(虹)やアトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などの候補の中から、出世魚であり太田川が名産地、広島城が「鯉城」と呼ばれているなどの理由から「カープ(鯉)」に決まる。同9月には中国新聞社が紙上でチーム名を発表した。

設立資金は広島県と広島市、福山市など県内の主要自治体が拠出し、チームの本拠地は1941年に皇紀2600年記念事業で建設された総合体錬場内の広島総合球場(現・広島県総合グランド野球場)に置かれる。

初開幕直後に選手の給料が遅配

しかし、当時の広島総合球場は草野球で利用される程度の施設で、外野にも芝がない全面土のフィールドに杭を立てて縄を張り、外側を観客席にしていた。そのため、打球が外野の縄の上を越えるとホームラン、下をくぐると二塁打(エンタイトルツーベース)になるという変則ルールも。

1953年には相手チームの打者がレフトポール直撃のホームランを打ったところ、「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ!」と怒ったカープファンがポールを引っこ抜くという、他球場では考えられないような事件も起こった。

そんな球場だけに試合のタダ見も横行し、カープ初代監督の石本秀一氏が試合そっちのけで入場券を持たない観客が入り込まないように見張っていたという逸話も残っている。スポンサーとなる企業もなく、タダ見客が後を絶たないとなると、球団財政の悪化は避けられない。

現在は充実した球場を持つカープだが、チーム創設時は全く違った(球団公式ホームページより)

2,500万円を目標とした資本金は1950年4月の時点で600万円しか集まらず、最終的には目標額の半分に止まった。さらに当時の入場料収入は、開催地に関係なく勝利チームに7割、敗れたチームに3割を配分する仕組みだったため、弱小チームだったカープの財政はますます苦しくなる。

開幕直後の5月には選手に支払う給料が遅配。ユニフォームやグローブなどの野球用具一式の代金が払えず、納入業者は倒産したという。球団では大きな樽を球場内のあちこちに置いて、市民からの募金を呼び掛ける「樽募金」を開始。合宿所は、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業<7011>広島製作所)の社員寮を借りるなど、コスト削減に努めた。

一時は身売り話も

経営を安定させるために親会社を獲得しようと、寿屋サントリー(現・サントリー)や専売公社(現・日本たばこ産業<2914>)、アサヒビール<2502>に売り込みをかけたが、いずれも頓挫。翌1951年3月には甲子園球場への遠征費も出せなくなった。

それでもチームは「旅費がないなら歩いて甲子園へ行くぞ。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気軒昂だったが、見かねたセリーグ連盟から「プロ野球は金がない者がやるものではない。早急に身売りせよ」と苦言を呈される。

同月の役員会で、山口県下関市を本拠地とする大洋ホエールズとの合併を決議した。しかし「ファンの協力で経営危機を乗り切る」と訴えた石本監督の説得で合併は撤回。石本監督は直ちに中国新聞紙上で「このカープをつぶせば日本に二度と郷土チームの姿を見ることは出来ない。私も大いに頑張るが、県民も大いに協力してカープを育ててほしい」と呼びかけ、広島県庁前で資金集めのための後援会構想を発表した。

この後援会には職場や個人の入会者が殺到。石本監督は試合は助監督に任せ、自らは広島県内各地の公民館や学校を回って球団の苦境を訴え、中国新聞に資金を募る投稿を続けた。試合後には選手も参加して講演会を開いたり、歌をうたったり、カープ鉛筆の即売会などを開いたりして、ファンづくりに取り組んだ。

こうした努力が実って、同7月の発足時にはカープ後援会の会員数は1万3000人に膨れ上がった。同年末までに集まった支援金は約440万円に達し、球団は130万円の黒字を計上する。

今も昔も「熱い」カープファンがチームを支えている(球団公式ホームページより)

地元企業のマツダが親会社

1968年にようやく親会社が決まる。地元企業の東洋工業(現・マツダ<7261>)だ。同社3代目社長だった松田恒次社長が筆頭株主となり、カープのオーナーに就任、息子の松田耕平氏(マツダ4代目社長)もオーナー代行に就く。チーム名も「広島東洋カープ」に改称した。後に松田家はマツダの経営から離れるが、耕平氏の長男である元氏が現在もカープのオーナーを務めている。

そのマツダが国内販売5チャンネル化などバブル期の拡大路線がたたり、経営危機に陥った。1996年に米フォード・モーターがマツダに33.4%出資し、社長はじめ経営陣を送り込んでリストラに乗り出す。

カープもリストラの一環として身売りされるのではないかとの懸念もあった。が、米国企業にとってプロ野球球団を保有するのは最高の名誉とされていることから、フォードは引き続きスポンサーとしてカープの支援を続けることを快諾した。

もしもマツダに出資したのが、日産自動車<7201>を救済した仏ルノーや三菱自動車工業<7211>を支援した独ダイムラー・クライスラー(現・ダイムラー)のような野球への関心が薄い欧州企業だったら、カープは身売りされていたかもしれない。

逆にサッカーに興味がない米国のフォードが日産や三菱自動車に出資していたら、サッカーチームの横浜F・マリノスや浦和レッドダイヤモンズが売却されていた可能性もあった。親会社の買収に伴う身売りがなかった日本のプロスポーツは幸運だった。

かつてBクラスが定位置だったカープも、リーグ優勝回数は中日ドラゴンズと並ぶ9回となり、36回の巨人に次ぐ2位に。2018年には巨人以来リーグ2番目となる3連覇を達成し、現在はセ・リーグの強豪チームだ。しかし、日本一には1984年以来、34年も遠ざかっている。

2018年10月27日のホームでの初戦は延長12回の激闘の末、引き分けに終わった。はたして広島はソフトバンクを下し、21世紀では初となる日本一の座をつかむことができるだろうか。

チーム 順位 日本シリーズ
広島カープ 1950 8
1951 7
1952 6
1953 4
1954 4
1955 4
1956 5
1957 5
1958 5
1959 5
1960 4
1961 5
1962 5
1963 6
1964 4
1965 5
1966 4
1967 6
広島東洋カープ 1968 3
1969 6
1970 4
1971 4
1972 6
1973 6
1974 6
1975 1 日本シリーズ初出場で阪急に敗退
1976 3
1977 5
1978 3
1979 1 近鉄を下し、初の日本一に
1980 1 近鉄を下し、2年連続の日本一に
1981 2
1982 4
1983 2
1984 1 阪急を下し、3回目の日本一に
1985 2
1986 1 西武に敗退
1987 3
1988 3
1989 2
1990 2
1991 1 西武に敗退
1992 4
1993 6
1994 3
1995 2
1996 3
1997 3
1998 5
1999 5
2000 5
2001 4
2002 5
2003 5
2004 5
2005 6
2006 5
2007 5
2008 4
2009 5
2010 5
2011 5
2012 4
2013 3
2014 3
2015 4
2016 1 日本ハムに敗退
2017 1 リーグ優勝するがクライマックスシリーズでDeNA敗退し、日本シリーズ不出場
2018 1 福岡ソフトバンクホークスと日本シリーズ初対戦

文:M&A Online編集部