一時は身売り話も

経営を安定させるために親会社を獲得しようと、寿屋サントリー(現・サントリー)や専売公社(現・日本たばこ産業<2914>)、アサヒビール<2502>に売り込みをかけたが、いずれも頓挫。翌1951年3月には甲子園球場への遠征費も出せなくなった。

それでもチームは「旅費がないなら歩いて甲子園へ行くぞ。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気軒昂だったが、見かねたセリーグ連盟から「プロ野球は金がない者がやるものではない。早急に身売りせよ」と苦言を呈される。

同月の役員会で、山口県下関市を本拠地とする大洋ホエールズとの合併を決議した。しかし「ファンの協力で経営危機を乗り切る」と訴えた石本監督の説得で合併は撤回。石本監督は直ちに中国新聞紙上で「このカープをつぶせば日本に二度と郷土チームの姿を見ることは出来ない。私も大いに頑張るが、県民も大いに協力してカープを育ててほしい」と呼びかけ、広島県庁前で資金集めのための後援会構想を発表した。

この後援会には職場や個人の入会者が殺到。石本監督は試合は助監督に任せ、自らは広島県内各地の公民館や学校を回って球団の苦境を訴え、中国新聞に資金を募る投稿を続けた。試合後には選手も参加して講演会を開いたり、歌をうたったり、カープ鉛筆の即売会などを開いたりして、ファンづくりに取り組んだ。

こうした努力が実って、同7月の発足時にはカープ後援会の会員数は1万3000人に膨れ上がった。同年末までに集まった支援金は約440万円に達し、球団は130万円の黒字を計上する。

今も昔も「熱い」カープファンがチームを支えている(球団公式ホームページより)