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【まとめ】時代を映したパ・リーグ球団 オーナー企業の変遷

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明日3月31日にプロ野球セ・パ両リーグのペナントレースがいよいよ開幕する。2リーグ制のペントレースが始まったのは、1950年。現在両リーグ合わせて12の球団があるが、そのころから運営母体が変わらずに球団名が残っているのは、巨人、阪神、中日、広島と、いずれもセ・リーグばかりだ。

パ・リーグの球団は、時代の流れとともにオーナー企業が幾度も変わっていき、必然的にその球団名も変化していった。そこで今回は、そんな変化の著しいパ・リーグを生き残ってきた球団のオーナー企業の変遷をまとめてみた。

■オリックス・バファローズ(1936年1月23日創立)

1936年1月23日 阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が「阪急軍」を結成。
1988年11月 オリエント・リース(現オリックス)に売却。
2004年12月 「大阪近鉄バファローズ」と合併

パ・リーグで最も古い歴史を持つ球団。阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が、当時のライバル会社・阪神電気鉄道が立ち上げた「大阪タイガース」(現在の阪神タイガース)に対抗して「阪急軍」を発足させたのが始まりだといわれている。ちなみに、企業名が入った球団名は「阪急軍」が初だったとのこと。その後、球団名を「阪急ベアーズ」「阪急ブレーブス」と変えていった。

そして、1988年にオリエント・リース(現オリックス)に譲渡され、「オリックス・ブレーブス」に球団名も変更。その後、「オリックス・ブルーウェーブ」に改称した。

2004年、近畿日本鉄道がオーナーの「大阪近鉄バファローズ」と合併し、現在の球団名に至る。

■福岡ソフトバンクホークス(1938年2月22日創立)

1938年3月1日 南海鉄道を親会社に「南海軍」が結成。
1944年 戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)によって、南海鉄道は関西急行鉄道と合併し、近畿日本鉄道に。
1947年6月 球団運営を含む旧南海鉄道の事業が近畿日本鉄道から南海電気鉄道に譲渡される。
1988年11 ダイエーに球団株式を売却。
2005年1月 ソフトバンクがオーナーに。

もともとは南海鉄道を親会社とする「南海軍」としてスタート。1944年に戦時企業統合政策で南海鉄道が関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道となったことから「近畿日本軍」に改称。戦後には「グレートリング」に名前を変えるも、1947年には球団運営を含めた旧南海鉄道の事業が南海電気鉄道へと引き渡され、「南海ホークス」へと名称を変えた。

その後40年ほどは南海電鉄の時代が続いたが、1988年にダイエーに売却され、「福岡ダイエーホークス」に。2005年には、業績不振で経営難に陥っていたダイエーからソフトバンクが球団を買収し、「福岡ソフトバンクホークス」となった。

■北海道日本ハムファイターズ(1945年11月6日加盟)

1945年11月6日 戦時中に解散した「東京セネタース」の中心人物、横沢三郎が個人で新たに「セネタース」を設立。
1946年12月 東京急行電鉄(東急)に売却。
1948年 4月に大映野球が経営に参加するも、12月には撤退。
1954年1月 東映に球団経営を委託。球団の保有企業と運営企業は別々に。
1973年1月 球団の保有権を東映に譲渡。東映が球団を日拓ホームに売却。
1973年11月 1シーズンで日本ハムに売却。

「セネタース」として発足したが、発足からわずか約1年後の1946年12月に東京急行電鉄(現在の東急電鉄)に売却され、「東急フライヤーズ」に。一時、映画会社の大映率いるプロリーグ非加盟球団「大映野球」が経営に参画し、「急映フライヤーズ」と名乗ることもあったが、1年ほど後に大映が運営から手を引くこととなり「東急フライヤーズ」へと戻った。1954年には、オーナー自体は変わらないものの、東映に球団運営を委託し、「東映フライヤーズ」に改称。名物オーナーであった大川博の死をきっかけに、赤字が続く不採算球団を手放すべく、1973年に不動産会社の日拓ホームへと売却され、「日拓ホームフライヤーズ」となった。しかし、わずか1シーズンで日本ハムへと身売りすることとなり、「日本ハムファイターズ」が誕生。2004年、本拠地を札幌へ移す際に現在の球団名となった。

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