「弘前れんが倉庫美術館」りんご酒とともに歩んだ百余年|産業遺産のM&A
「弘前れんが倉庫美術館」の建物は、もともと地元酒造会社の工場・倉庫だった。同時に、日本のシードル(りんご酒)発祥の地でもあった。美術館として再生するまでの歴史をたどる。
京都市中京区に本社を置くNISSHA(ニッシャ、旧日本写真印刷、2017年に改称)。同社の本社がある壬生花井町は、平安京が栄えた時代、都の中心に位置していた。平安京の右京、三条と四条の間、朱雀大路に面した地には朱雀院があり、宇多天皇や村上天皇など歴代天皇の退位後の住まいとされていた。同社は本社をその朱雀院跡地に置く。
同社本社敷地正面には規模は大きなものではないが、本館と呼ばれる瀟洒な洋館がある。その本館は現在、NISSHA印刷歴史館として多くの見学者を迎える。印刷業はもちろん様々な会社の社員研修、学校の見学学習などにも使われている。
この印刷歴史館の建物は、もともとは当時の京都における紡績会社の大手、京都綿ネルの本社屋だった。京都綿ネルは1895(明治28)年に創業。3年後の1898年にこの地に工場を建設し、操業した。当時「ノコギリ屋根」の大規模工場群は、京都の街中にあってひときわ存在感を示した。
京都綿ネルは1901年には敷地の北側に隣接していた京都紡績を合併した。当時、京都の紡績会社としては京都紡績、平安紡績、伏見紡績などがあり、京都府下の中小繊維会社を巻き込んで、合併や買収を繰り返していた頃のことだ。
その後、京都綿ネルは1906年に本社事務所(現本館)を建設する。ところが、本社事務所を含めた工場施設は1915年に辻紡績所という同じ京都の紡績会社に譲渡された。第二次大戦中の1943年には一時期ではあるものの島津製作所の所有になったという。
第二次大戦を挟んで1946年、日本写真印刷が設立されている。そして、その2年後の1948年、かつての京都綿ネルの広大な工場敷地と建物を日本写真印刷が買収した。日本写真印刷では、本館を1980年まで30年以上にわたり本社屋として使ってきた。
日本写真印刷では1948年の買収後、旧京都綿ネルの工場群を倉庫や生産工場として活用してきた。徐々に老朽化していく工場群。何度も改築や修繕を繰り返していたという。
だが、印刷業はもともと大きく重い印刷機や重量のある洋紙などの在庫を置く堅牢な工場・倉庫が必要だ。その意味では、大型の施設や設備を要する装置産業でもある。京都市街の中心地、観光地の目抜通りで操業を続けるのは、どうしても無理があるだろう。そのため同社では京都府下の他の地域や他県、さらに産業全体の海外進出の機運もあり、海外での設備投資も続けてきた。
すると、レンガ造りのノコギリ屋根工場は十分な補修ができない状態になってきた。同社では取り壊しも含めて本社・工場敷地の再開発の検討に着手した。
再開発にあたっては、歴史的建造物や調度品も残されているという事情から、大学の研究室も交えて建造物の調査を実施した。すると、工場群のレンガには大阪窯業が関わっていることがわかった。
大阪窯業とは1888年に大阪・堺に設立され、その後隣接する岸和田市の岸和田煉瓦とともに、大阪煉瓦産業の一大集積地を形成した会社である。工場の並ぶ臨海地域は、「東洋のマンチェスター」とも呼ばれた大阪の中でも屈指の工業地帯となった。
鉄製の梁にはLONDONの刻印があった。輸入鋼材であることを示している。老朽化著しい工場群と本社屋は、当時の建築財と技術の粋、京都紡績産業の底力を結集したものであることがあらためてわかった。
同社では、これら明治建築の粋を後世に伝えていく必要性を痛感し、2008年に本館を保存改修した。そして2009年、本館を印刷歴史館としてオープンした。
「弘前れんが倉庫美術館」の建物は、もともと地元酒造会社の工場・倉庫だった。同時に、日本のシードル(りんご酒)発祥の地でもあった。美術館として再生するまでの歴史をたどる。
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