100年以上にわたって1000隻にのぼる艦船などを製造・修理してきた造船施設、通称「浦賀ドック」。この日本最古級の造船施設が2021年3月に住友重機械工業から横須賀市に寄付された。
新型コロナウイルス感染症の影響もあり、2021年10月現在は限定されたツアーのみの一般公開となっているが、ここには1899年に建造されたレンガ造りのドライドック(船体の検査や修理などのために水を抜くことができる船渠)が国内で唯一残されている。日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸、日本丸、海王丸、青函連絡船……と、多くの艦船・客船がこの地で修理・建造され、出帆していった。
浦賀ドックが閉鎖されたのは2003年。閉鎖になるまでは、住友重機械工業追浜造船所(横須賀造船所)浦賀工場として数多くの船を建造してきた。
その歴史を1853年の黒船来航からたどっていこう。黒船が浦賀に来航した際に、幕府はかねて海運の要衝であった浦賀に造船所をつくるよう命じた。
港町・浦賀に造船所をつくろうという気運が高まったのは1854年のこと。当時、浦賀には浦賀奉行所があり、「船改め」の業務が行われていた。浦賀奉行所は1720年に設置された、船改めをはじめ海難救助や地方役所としての仕事などを担い、異国船から江戸を防備するための海防の最前線として重要な役割を果たしてきた。2020年には開設300周年で、横須賀市では各種のイベントが催された。
浦賀造船所では、江戸時代末期に幕府がオランダに発注・建造した軍艦「咸臨丸」の船底を修理したという記録が残っている。ただ、造船所といっても明治維新前後、今から150年ほど前のこと、当時の技術を結集した施設とはいえ、高度・大規模なものとは言いがたい。浦賀造船所は明治維新を経て、1876年に廃止となる。
時期は前後するが、浦賀造船所廃止の過程で、政府は1873年に水兵の基礎教育機関である水兵練習所を設置している。その練習所が水兵屯集所、浦賀屯営と改称していった。だが、浦賀屯営も1889年に廃止されることになる。
その後、10年近く経たのちの1897年、農商務大臣の榎本武揚や地元有力者の賛同を得て、浦賀船渠という会社が設立され、船渠工事を始めた。浦賀船渠は当時あった陸軍要塞砲兵幹部練習所の敷地や民有地を取得して設立された設立で、官営主導で進めた工場・インフラの多かった当時としてはめずらしく、資本金100万円で民間が設立・運営する工場だった。
2年後の1899年に船渠が完成し、浦賀船渠は1900年から操業を始めた。“海運ニッポン”の威信をかけて、日本各地に造船所がつくられた明治期。浦賀船渠もその一つであり、外国人技師を雇い入れ、その技術を吸収していった。ドイツ人技師らが活躍したという。
浦賀船渠では創業以来、主に国内の工事用運搬船の製造を手がけてきた。ところが1902年、フィリピンの沿岸警備用の砲艦ロンブロン号を扱って以降、本格的な艦船の造船へ乗り出していった。
と同時に、干鰯問屋などで栄えた商業港・浦賀も、工業港の役割が強くなっていった。巨大造船所の景況はガス会社、物流・鉄鋼会社、商店街など地元産業界への影響も大きい。浦賀の街全体の景況も浦賀船渠の受注動向に大きく依存することになった。
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