世界を制した北見 “ハッカ王国”|産業遺産のM&A

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北見市街にある北見ハッカ記念館。もともとは1935年に建設されたホクレン北見ハッカ工場の研究所だった

広大な北海道のなかでも最も広い面積を有する北見市。その北見市を中心とする道東の北見地方は、かつて世界一のハッカ(薄荷)の産地であった。

北見にハッカの栽培が根づいたのは明治中期、1890年代のこととされている。江戸期から明治期にかけて日本各地で油の生産のためにハッカの栽培は行われており、当時の主産地は山形県だった。

その後、北海道に伝播し、旭川が主産地となっていく。そして当時、福島出身の農業指導者、渡辺精司が北見で野生のハッカが育っていることを見て、北海道湧別に入植するとともにハッカの栽培を奨励した。

生産から精製事業も順調に伸び、1890年代にはハッカ商も精製事業に着手し、明治後期には生産農家の年間生産額が全体で40万円を超えるほどにまで成長を遂げた。現在のお金に換算すると、4億円を超える額である(現在と当時の企業物価指数をもとに試算)。“ハッカ御殿”が建つほど潤っていた頃、北見とその一帯(北見地方)のハッカの作付面積は全国の86%を占めるまでになっていた。

大打撃を与えたサミュエル事件

北見のハッカ商は中国からも種苗を持ち帰り、品種改良を重ねた。だが1912年頃、北見ハッカ業界にとって痛恨の一大事、サミュエル事件が起こった。当時の村長ら生産者側の中心人物がハッカの大手買付業者である英国サミュエル商会と密約を交わし、自分たちの懐を潤すような取引契約を結んだのである。

サミュエル事件は結局、契約不履行や代金未払いなどの訴訟にまで発展した。その事件をきっかけに、高騰していたハッカ価格は下落に転じ、また、当時のハッカ商、日本の大手商社なども取引に関わり、ハッカは投機的な作物ともいわれるようになっていった。生産農家は失望し、ハッカ栽培はいっぺんに停滞期を迎えた。

だが一方で、失意の底にあった生産農家としては、ハッカ商の直接的な買付けではなく、地場でいったん買い上げ、それを流通してもらうような事業取引を望んでいた。

北見ハッカの立役者ホクレン

北見ハッカが息を吹き返したのは第2次大戦の前、1933年のことである。保証責任北海道信用購買販賣組合聯合會(現ホクレン)がハッカの精製・流通を引き受けることになり、ハッカ精製工場の建設が北見市で始まった。

農家から集めた取卸し油を2次加工するための環境づくりと、ハッカの買い取り価格の安定などの陣頭指揮をとることで生産農家などの関係者の要望に応え、建設に踏み切ったハッカ工場。当然のように北海道も積極的に産業振興をバックアップした。

そして、ホクレン北見ハッカ工場は世界一を誇る規模になり、北見はもちろんホクレンの成長を支えた。北見地方の多くの生産農家は固定的な作物としてハッカを栽培するようになり、1934年には北見ハッカがブラジルなど海外に輸出されるようになった。1938年頃、北見ハッカの栽培面積は約2万1000ヘクタール、取扱い油の生産量は780トンとなった。北見は押しも押されもせぬ、70%の世界シェアを誇るハッカ王国となった。

その当時、建設されたのがホクレン北見ハッカ工場の研究所。現在も北見の市街地に残る北見ハッカ記念館である。

北見ハッカ記念館内部。往時のハッカ油の精製器などが展示されている

だが、世界一を誇った北見ハッカの隆盛も長続きしなかった。第2次大戦後、ブラジル、中国、台湾など海外産のハッカに押されるようになり、さらに化学反応によってつくられる合成ハッカが主流になっていった。

そして1983年、生産量が急激に落ち込んでいたホクレン北見ハッカ工場が閉鎖された。北見のハッカ産業は、このとき終焉を迎えた……かに見えた。

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