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「イトムカ鉱山」日本最大の水銀採掘地はいま|産業遺産のM&A

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東洋一の水銀生産量を誇ったイトムカ鉱山の発祥之地碑

北海道の北見と旭川を結ぶ国道39号線。通称、大雪国道とも呼ばれる道は、大雪山の山中、標高1000mを超える石北峠を越えるにもかかわらず、特に北見側のトラックの往来は四季を通じて多く、 “隠れた交通の要衝”の感もある。

その大雪国道の山間僻地、北見市留辺蘂町富士見に、東洋一の水銀生産量を誇ったイトムカ鉱山があった。

関西系財閥による鉱山開発

イトムカ鉱山の開発が始まったのは1939(昭和14)年4月。明治期が多い鉱山開発としては、比較的新しい時期の開発着手だった。鉱床発見のきっかけは1936年のこと。当時の暴風雨や暴風雪を受けて、倒木の搬出作業中に木の根に付着した良質の辰砂(硫化水銀(II)からなる鉱物)が発見されたことによるとされる。

この鉱床に目をつけたのは、関西の実業家・野村家、旧野村財閥であった。野村家が経営する大和鉱業によって、鉱山の開発が始まった。

大和鉱業は鉱山開発に着手した年の翌1940年、野村鉱業という株式会社に改称し、同社が鉱山経営を担うことになった。そして戦中戦後期において国内水銀の主要生産地になり、一時期は国内の水銀生産量のほとんどを占め、生産量はもちろん処理能力においても東洋一の規模を誇る鉱山となった。

水銀のまちとして隆盛を極める

イトムカ鉱山跡に残る恵泉中学校・小学校跡の碑

イトムカ鉱山には戦後の最盛期、鉱山事務所・選鉱場・精錬所はもちろんのこと、350余戸の鉱山関係者の社宅や寮があった。恵泉小学校・恵泉中学校という小中学校のほか、診療所や伊頓武華郵便局、さらに公民館・町役場の出張所、駐在所などもあったという。

特に鉱山事務所や選鉱場のあった当時の留辺蘂町大町地区には野村鉱業の採鉱関係員の社宅50余戸が立ち並び、公共施設も整備されていた。日本全国の鉱山町は似たところは多いが、イトムカ鉱山も“鉱山城下町”として隆盛を極めた。

だが、その隆盛も長くは続かず、1964年の年間2474トンをピークに国内の水銀需要は急速に萎んでいった。そうした需要の急減も受け、イトムカ鉱山は開発からわずか30年あまりの1973年、閉山となった。鉱山城下町も閉山を機に、急速に廃れていった。

現在は、選鉱場のあった大町地区において、野村鉱業の流れを汲む野村興産が水銀を含む廃棄物の処理・リサイクルを行っている。

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