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数奇な時を刻む99段の「百段階段」 ホテル雅叙園東京|産業遺産のM&A
目黒雅叙園は石川出身の大富豪・細川力蔵が東京芝浦の自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」に始まる。庶民や家族連れが気軽に入れる料亭として目黒に移し、来店客に目でも楽しんでもらいたいと、壁画や天井画、彫刻など館内の装飾を施し、豪華絢爛なミュージアム・ホテルとなった。
現在の上野公園(東京都台東区)界隈にはいくつかの駅舎があった。たとえば、旧「博物館動物園駅」である。
かつて京成電氣軌道という名称だった京成電鉄の本線、日暮里駅と上野公園駅(現在の京成上野駅)のほぼ中間に位置していた。
博物館動物園駅は地下駅で、今は堅く門扉が閉ざされ、一般開放されない限り駅舎内に入ることはできない。ホームに明かりが灯っていた頃は、京成本線の電車に乗り、京成上野駅のそばで窓外が広くなっている地下ホームを見ると地下駅があるとわかったが、今は明かりもなく、その存在に気づくこともない。
だが、駅舎としては上野公園の北の角、東京国立博物館や東京芸術大学、東京都美術館、黒田記念館などがある交差点の一角に駅舎出入口の重厚な建築物が建っている。
博物館動物園駅の開業は1933年12月。京成本線が上野公園駅まで開通したのと同時期に駅舎としてオープンした。開業当時は動物園前停留所と呼ばれていたようだ。この駅舎のオープンは京成電氣軌道にとって、東京都心への延伸の足掛かりとして悲願であったかもしれない。
だが、単純に鉄道の敷設免許を取得し、延伸することはできなかった。上野の山は鉄路を延ばすには勾配が急なため地下駅が必要で、その敷地は天皇家の所有地(御料地)でもあったからだ。京成電氣軌道としては、上野に乗り入れるためには資金面で行き詰まっていた面もあった。
ところが当時、京成電氣軌道が想定した日暮里・上野間の鉄道敷設免許を先んじて取得していた会社があった。筑波高速度電気鉄道という投機目的の会社である。
筑波高速度電気鉄道は、1920年代から1930年代にかけて営業していた鉄道会社。鉄道敷設免許を他の鉄道事業会社が申請する前に取得し、それを求める会社に売却することを目的として設立された。その社名のとおり、東京(市)の上野駅と茨城県の筑波山を結ぶ鉄道路線の敷設免許を持っていた。だが、大半は路線を敷くことはなかった。
筑波高速度電気鉄道が現在の日暮里駅から千葉県流山市を通り、筑波山に至る鉄道の敷設免許を取得したのは1928年3月のこと。同年10月には上野駅地下への路線延伸免許も申請し、取得していた。
筑波高速度電気鉄道は上野・日暮里・筑波間の免許を売り込むべく、まず東武鉄道に話を持ちかけた。だが、断られた。おそらく価格面で折り合いがつかなかったのだろう。そこで、京成電氣軌道に話を持ちかけた。
当時の京成電氣軌道は、2013年まで本社のあった押上駅が東京側のターミナル。1930年前後は浅草への乗り入れなど、東京都心へのルート確保に腐心していた時期だ。このため、筑波高速度電気鉄道の申し出をすんなりと受け入れた。
だが、京成電氣軌道が行ったのは、路線延伸免許の譲受けだけではなかった。筑波高速度電気鉄道そのものの吸収合併である。
筑波高速度電気鉄道が京成電氣軌道に吸収合併されたのは、日暮里駅が開業する1年前の1930年10月のこと。筑波高速度電気鉄道は会社としては消滅し、以後は日暮里・上野間の延伸に京成電氣軌道が取り組むことになった。
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目黒雅叙園は石川出身の大富豪・細川力蔵が東京芝浦の自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」に始まる。庶民や家族連れが気軽に入れる料亭として目黒に移し、来店客に目でも楽しんでもらいたいと、壁画や天井画、彫刻など館内の装飾を施し、豪華絢爛なミュージアム・ホテルとなった。