2つのルーツを持つ「南部鉄器」の底力|産業遺産のM&A

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奥州市鋳物技術交流センターにある南部鉄器「大鉄瓶」

日用品の水沢鉄器と嗜好品の盛岡南部鉄器

水沢鋳物は伊達藩の保護のもと、盛岡南部鉄器とは異なる発展を遂げていく。その違いは一言で述べると、生活用品の水沢鉄器と、茶の湯をはじめ趣味嗜好品の盛岡南部鉄器の違いである。水沢鉄器は鍋や釜はもちろん、戦国時代には武具も鋳造し、その技術を発展させてきた。一方の盛岡南部鉄器は、鉄瓶や湯釜などいわゆる風流な鋳物を製造し、文化を育んできたといえる。

両者が融合してきたのは江戸期に入ってからである。水沢鉄器と盛岡南部鉄器は、ともに寺社仏閣の梵鐘などにも使われるようになっていった。

明治期に入り、鉄道をはじめ交通網が徐々に東北にも敷かれるようになるにつれ、盛岡南部鉄器はもちろんのこと、水沢鉄器も販路を拡大していく。明治後期から大正期にかけて、1900年頃に水沢は東北を代表する鋳物の産地になっていった。

産業消滅の危機を乗り越え、艱難辛苦の“リスタート”

ところが昭和期には他の産業と同様に、水沢の鋳物産業も戦禍に翻弄されることになる。鉄器の日用品需要は高まるものの、戦時統制下にあっては鉄器、特に主産品である鉄瓶の製造は禁止され、鋳物師たちは軍需品の鋳物製造に従事するようになる。1942年には鋳物の伝統工芸技術を守るため、水沢でもごく限られた鋳物師だけが鉄瓶の製造に従事できるように仕向けられた。

そして戦後、水沢鉄器の鋳物師は多くが喜び勇んで鋳物製造に復帰し、鋳物産業は復活するかに思われた。だが、水沢は天災に見舞われる。1947年と1948年、相次いでカスリーン台風とアイオン台風が関東・東北地方を襲った。水沢の鋳物工場もほとんどが浸水する憂き目に遭う。

さらに1949年には水沢の鋳物産業の集積地、羽田地区が大火(羽田大火)に見舞われ、多くの工場が焼失してしまう。水沢鋳物にとって壊滅的な危機だ。終戦直後の水沢鋳物は、まさに浮きつ沈みつ、山あれば谷あり、艱難辛苦の“リスタート”となった。

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