ゴジラに壊されシン・ゴジラに射抜かれても…|産業遺産のM&A

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銀座一等地のランドマークとして歴史を刻む銀座和光本館

東京・銀座のランドマークともいえる銀座和光本館。服部時計店の時計塔のあるビルという人もいる。2009年に経産省の近代化遺産に指定された、銀座屈指の一等地にある瀟洒な建物だ。ただし、服部時計店といわれても、その名称はすでになく、「銀座和光のビル」というほうがわかりやすい人も多いかもしれない。

「では、服部時計店と和光の関係は?」「服部時計店って、セイコーだよね?」「セイコーって、エプソン?」「そもそも、みんなどんな関係があるの?」と考え始めたらよくわからなくなってしまう人がいるかもしれない。

そこで、それら服部時計店に関連する企業グループを整理してみた。

服部時計店とは、どんな会社だったのか

そもそも服部時計店とはどんな会社だったのか。その創業は1881年、創業者は明治期の実業家・服部金太郎である。

服部は10代の頃から舶来の時計を販売するだけでなく、独自に修理もできる店を開きたいと考えて修行を積み、20代の初めに服部時計店を開業した。時計の中古品を安く買い取り、修繕して販売する。折からの舶来品、高級品、時計ブームもあり、業績も軌道に乗り、1883年に銀座に小さな店を構えた。

と同時に、服部は時計の修理だけでなく、製造も見据えて研究を重ねた。そして服部時計店の創業10年を経た1892年に設立したのが、精工舎という時計製造工場である。精工舎は服部時計店の製造部門という位置づけだった。

この頃から、服部時計店は、精工舎で製造した時計の販売・マーケティングを担うようになっていった。そして1894年に銀座の一等地、銀座4丁目の角地を買収した。それが初代の時計塔のある服部時計店の本社ビルである。

精工舎、すなわち服部時計店の製造工場は1913年、国内初の腕時計を開発する。また、1917年に服部時計店は株式会社となり、業容を拡大した。

ところが、その服部時計店も1923年の関東大震災では大打撃を受けた。銀座の社屋も全壊に近い状態で、経営も傾いた。だが、服部は再起・復興を期し、事業を立て直す。1925年には腕時計の量産化をできるまでに復興し、1932年には服部時計店本社ビルを建て直した。それが現在の時計塔のある服部時計店のビル、和光本館である。

服部時計店のビルは第二次大戦後、『ゴジラ』に壊され、『シン・ゴジラ』の放射熱線に射抜かれても、その時計塔は銀座のシンボルとして今も時を刻み、告げている。

服部時計店は服部家の時も刻む。服部時計店は代々服部家が社業を継ぐ、世襲色の強い企業だった。創業者である服部金太郎の長男は服部時計店の2代目、次男が3代目、長男の子が4代目、長男の次の子が5代目となる。その5代目の時代、1983年に服部セイコーと社名変更している。「服部」の名を冠し、「精工舎」の名を冠した社名だった。

服部家はこのように血族(金太郎本人の家系)だけでなく姻族(配偶者の家系)、さらに閨閥も密接なつながりを持って、広く政財界、文化界にも広がっていった。服部金太郎という時計大好き少年、精密機械をこよなく愛する時計屋のおっちゃんは、日本の時計界、精密機械業界においてなくてはならない存在となった。やがて東洋の時計王と呼ばれるようになる。そして、その時計店のビルも、銀座になくてはならないランドマークになっていったのである。

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