日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を全12回にわたり振り返ってゆく。第7回で取り上げるのは、「三菱商事と三井物産の復活」である。

GHQによる財閥解体

 1945(昭和20)年8月の第二次世界大戦における敗北によって日本は、1952年4月まで連合国の占領下に置かれることになった。終戦後のGHQ(連合国最高司令官総司令部)の財閥解体政策の一環として、1947年7月、三井物産と三菱商事は解体を余儀なくされた。GHQは徹底的な解体を命令し、両社はそれぞれ200社前後の小商社に分割された。

 それから7年経った1954年7月、占領の終結から2年3カ月経った時点で、三菱商事は再統合を達成した。さらに5年後の1959年2月には、三井物産の再統合が実現した。

三菱商事の再統合

 三菱商事の再統合が迅速に実現した要因としては、次の2点をあげることができる。

 第1は、財閥解体によって分割された旧三菱商事の流れをくむ各商社が、再統合へ向けて足なみをそろえたことである。1950年10月のGHQの覚書により旧三菱商事の解散時に課せられた条件が緩和されたこともあって、後継各商社は合併を重ね、1952年4月の講和発効時点では主要商社は、光和実業、不二商事、東西交易、東京貿易の4社にしぼられていた。このうち1950年4月に設立された光和実業は、旧三菱商事の第2会社であり、講和発効後の1952年8月に三菱商事と改称した。三菱の場合には、第2会社の光和実業が「三菱商事」の商号を継承することに対して、大きな異論は生じなかった。1952年中に三菱商事(旧光和実業)・不二商事・東西交易・東京貿易の4社は、早期に大合同を実現することで基本的に合意した。

 第2は、三菱グループ各社が、三菱商事の再統合を積極的に支援したことである。まず、三菱系各社は、旧三菱商事の第2会社として光和実業を設立することに協力した。ついで、1953年に入り、具体的な条件をめぐる意見の対立から4社大合同が難航し、段階的合同論が台頭した際には、局面を打開して同時大合同を実現するうえで、中心的な役割をはたした。三菱商事の再統合を三菱系の各メーカーが支援したのは、旧三菱商事の分割によって生じた原材料購入と製品販売の両面での取引コストの増大や取引範囲の縮小を、解消しようとしたからであった。このようなメーカーの要請は、1950年代になって貿易が本格的に再開されるにつれて、いっそう強まった(以上の記述は、三菱商事株式会社『三菱商事社史』上巻、1986年、715-742頁による)。

再統合が遅れた三井物産

 三菱商事の再統合が迅速に実現したのに対して、三井物産の再統合はなかなか進展しなかった。当時の公正取引委員会の調査は、その理由として、①三井銀行の資金力不足、②旧三井物産の後継会社間の足なみの乱れ、③三井系諸メーカーの協力の不十分さ、などの諸点をあげている(公正取引委員会編『再編成過程にある貿易商社の基本動向』1955年、139、143頁)。

 このうち①については、三井物産再統合の過程で一つのネックとなった第一通商の負債処理問題に関して、三井銀行が十分な資金手当てを行うことができず、富士銀行や東京銀行の支援をあおいだことが重要な意味をもった(三井物産株式会社『挑戦と創造―三井物産100年のあゆみ』1976年、185-186頁)。次に②については、1952年4月の講和発効時点で旧三井物産の後継商社が主要なものだけでも10社以上存在したこと、1952年6月に旧三井物産の第2会社である日東倉庫建物(設立は1950年2月)が三井物産と改称してのちも「三井物産」の商号の使用をめぐって後継商社間で紛議が生じたことなど、三菱商事の場合にはみられなかった状況が現出した(日本経営史研究所『稿本三井物産株式会社100年史』下巻、1978年、118-142頁)。さらに③については、三菱の場合とは異なり、三井においては、1954年以前の時期に、三井物産の再統合を支援しようとするメーカーの動きは、ほとんどみられなかった。

 遅滞していた三井物産の再統合をめざす動きを活発にさせたのは、1954年の三菱商事の再統合であった(前掲『挑戦と創造―三井物産100年のあゆみ』186頁)。旧三井物産の後継商社のあいだには、再統合をはたさないかぎり、三菱商事に大きく水をあけられるという危機感が広がった。

 この危機感は、三井系の各メーカーにも波及した。そして、ようやく1955年5月になって、三井物産の再統合を支援する「三井系会社社長有志会」が組織されるにいたった。「三井系会社社長有志会」は、1955年5月から1958年8月にかけて、三井物産再統合の鍵を握る第一物産と三井物産(旧日東倉庫建物)との合併を成立させるために、活動を続けた。

 斡旋は難航し、途中交渉が中断する時期もあったが、最終的には、社長有志会の提案に沿う内容をもりこんだ合併契約書が取り交わされた。1959年2月に、第一物産と三井物産は合併し、新生の三井物産が誕生して、再統合がようやく達成されたのである(以上の記述は、前掲『稿本三井物産株式会社100年史』下巻、124-138頁による)。

文:橘川 武郎(きっかわ たけお)国際大学大学院国際経営学研究科教授

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