日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を全12回にわたり振り返ってゆく。第5回で取り上げるのは、「日本製鉄の誕生」である。

官営と民間5社との「製鉄合同」が実現

 王子製紙、富士製紙、樺太工業の3製紙会社が合併して新王子製紙が誕生した翌年にあたる1934(昭和9)年の1月、さらなる大型合併が世間の耳目を集めた。官営製鉄所と輪西製鉄・釜石鉱山・三菱製鉄兼二浦製鉄所・九州製鋼・富士製鋼の民間5社との「製鉄合同」が実現し、日本製鉄が発足したのである。

 2ヵ月後の1934年3月には東洋製鉄が、2年後の1936年5月には大阪製鉄が、それぞれこの製鉄合同に加わり、日本製鉄に合流した。この大合同について、『ダイヤモンド』1934年1月21日号に掲載された記事「日本製鐵会社の創立と合同各社の評価」は、「日本製鐵会社法案に基く製鉄合同会社は愈よ成立の運びを見るに至つた。この合同会社は、(中略)八幡製鐵所を中心にして、之れに民間製鉄会社を合併したる一大製鉄会社である。政府が株式総数の二分の一以上を所有して、しかも、その業務の監督権を持つてゐる特殊会社である。一言にして云へば、半官半民的組織の上に立つ処の会社であるが、更に其の資本の膨大なる点に於ては、我国企業会社中、満鉄、東電に次ぐものとして注目される」と説明している。

政府主導の特殊会社

 発足した日本製鉄は、いちおう民間会社の形式をとっていたが、この記事にあるとおり、政府が主導権を握る特殊会社としての性格を色濃くもっていた。この点は、文字通り民間会社として成立した新王子製紙の場合とは、大いに異なっていた。

 長島修は、「日本製鉄は、官営製鉄所と民間会社の合同によって成立し、民間会社の形式をとっているが、株主の資格制限、発行株式の過半数の政府所有、政府の監督規定、人事権、経営権に対する政府介入など、広範な政府管理・監督規定によって規制されていた。また、軍部との関係では軍部大臣との協議事項が定められていて、単純な民間会社とはいえない性格をもっていた」と述べている。そして、「日本製鉄は国内の主要な製銑企業を網羅して成立したが、主要な民間製鋼-圧延製鉄所企業は、合同に参加しなかった。1936年の日本製鉄の銑鉄生産高(朝鮮と内地合計)は203万トン、シェア91%、粗鋼生産高は273万トン、同51%、鋼材生産高は179万トン、同41%であった」とも記している(長島修「日本製鉄の成立」経営史学会編『日本経営史の基礎知識』有斐閣、2004年、181頁)。

 民間製鋼-圧延製鉄所企業が製鉄合同に参加しなかった理由の一端は、資産評価をめぐる意見の不一致にあった。日本製鉄の成立に際しては、資産評価が大きな論点となった。製銑企業に限定にしても、合同にあたって資産が水ぶくれしたではないかという批判が生じた。これに対して、『ダイヤモンド』1934年2月11日号の記事「日本製鐵の資産評価に対する誤れる批判」は、(鉄鋼の)「屯当りの固定資産六十二円台は、製鉄事業の設備として、大体妥当な値頃である。すると、当社の資産評価は決して過当なものでないと言へる訳である」と反論している。

戦時経済体制構築の一環として

 日本製鉄の発足をめぐっては、研究者のあいだで、産業合理化や戦時経済体制構築などの文脈から様々な議論が交わされてきた。ただし、「満州事変」の3年後、「日華事変」の3年前というタイミングを考え合わせれば、製鉄合同が単なる産業合理化策ではなく、戦時経済体制構築の一環としての意味をもったことは間違いなかろう。

 日本製鉄は、第二次世界大戦の終結後、複雑な運命をたどった。まず1950年に、独占禁止政策の適用を受けて、八幡製鉄と富士製鉄に分割された。八幡・富士両製鉄は、1970年に合併し、新日本製鉄となった(新日本製鉄の発足については、本シリーズの第9回目で取り上げる予定である)。新日本製鉄は、2012(平成24)年に住友金属工業と経営統合し、新日鉄住金として新発足した。その新日鉄住金が2019年に日本製鉄と商号変更して、今日にいたっている。

文:橘川 武郎(きっかわ たけお)国際大学大学院国際経営学研究科教授

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