「三大紡績」の成立

 日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、1年間にわたって、月1回のペースで、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を振り返ってゆく。第2回で取り上げるのは、「三大紡績」(鐘淵紡績・東洋紡績・大日本紡績)の成立(〜1918)である。

産業革命は綿工業から

 人類最初の産業革命が18世紀半ばに始まったイギリスの場合がそうであったように、多くの国においても、産業革命は綿工業を舞台にスタートする。地球上どこでも綿製品に対する需要は大きく、資本集約度が重化学工業ほどには高くない綿工業は、機械化や動力化をともなう大量生産を最初に遂行するのに適した産業だからであろう。

 日本の産業革命も、1882(明治15)年に設立された大阪紡績が翌年、操業を開始することによって始まった。阿部武司は、大阪紡績の特徴について、「①株式会社制度を採用し、財界の有力者渋沢栄一や大阪の商人松本重太郎らの呼掛けに応じて旧大名、大阪・東京の有力な実業家や商人など都市の富豪多数の出資を受け、しかも渋沢が頭取であった第一国立銀行から運転資金を得られた。②資金調達力の向上により、1万500錘*という大規模な設備が採用された。③蒸気機関が導入されたため工場の安定的な操業が可能であった。④大都市大阪市の近郊に工場が設置されたため、労働力調達や製品販売が容易であった。⑤イギリスで紡績技術に関する研鑽をつんだ山辺(やまのべ)丈夫(たけお)を迎えた」、と説明したうえで、「操業開始後ほどなく昼夜業を導入し、資本が労働に比べ稀少である状況に適合的な生産体制を構築したことや、85年頃、価格が国産棉花の約4分の3であった中国棉花を使用するようになり原棉コストを下げたこと等も大阪紡の成長を促進した」、と述べている(「近代経営の形成」宮本又郎ほか『日本経営史[新版]』有斐閣、2007年、93-94頁)。

 大阪紡績の成功を受けて、わが国では、近代的な紡績会社の設立ブームが生じた。1886年から1889年にかけての4年間は、日本における資本主義の成立を告げる「企業勃興期」として特筆されている時期であるが、そこで紡績業は、鉄道業とともに、企業設立の中心産業となった。

 1897年に綿糸輸出が綿糸輸入を凌駕し、綿織物輸出の増加も含めて、日本の綿工業は、徐々に国際競争力を高めていった。そのプロセスでは、大紡績会社同士の水平統合も進展した。

 日本の産業革命を先導した大阪紡績は、1914(大正3)年に三重紡績と合併し、東洋紡績が発足した。1914年に東京紡績、1916年に日本紡績を合併していた尼崎紡績は、1918年に摂津紡績と合併して、大日本紡績が成立した。その間に、1887年設立の鐘淵紡績(設立時の社名は東京綿商社、1893年に鐘淵紡績と改称)も、中小紡績を合併するなどして、企業規模を拡大していた。こうして、1918年には、東洋紡績・大日本紡績・鐘淵紡績からなる「三大紡績体制」ができあがったのである。

 これら3社は、わが国における1918年の工業会社資産額ランキングで、全体の4~6位を占める大企業であった(経営史学会編『日本経営史の基礎知識』有斐閣、2004年、422頁。由井常彦=マーク・フルーエン作成資料)。そして、「3社は、換算錘数(織機は紡績機に換算)でいずれも60万錘を超え、合わせて全設備の50%、綿糸生産の51%(40番手**以上の61%)、兼営織布***の66%を集中(18年下)しつつ、巨額の利潤を蓄積して自己金融比を強め、3社計で内部資金は払込資本の1.4倍、外部負債の3.6倍に達していたのである(18年下末)」(高村直助「大紡績企業の成立」前掲『日本経営史の基礎知識』93頁)。

 日本の工業化は、もちろん欧米先進国と比べれば遅れて生じたが、それ以外の後発国・地域のなかでは最も早いものとなった。

 わが国は世界最初の後発国工業化を実現したわけであるが、それを可能にするうえで、紡績業がはたした役割は大きかった。その担い手たちは、第一次世界大戦が終結した年である1918年には、「三大紡績会社」として、はっきりとその姿を現したのである。

* 紡錘の数。紡錘は、綿糸を紡ぐ装置。
** 番手は、糸の太さを表す単位。数値が高いほど高級品となる。
*** 日本の紡績会社の多くは、綿糸生産だけでなく、綿織布生産も兼営していた。そのような会社が生産する綿織布は、「兼営織布」と呼ばれた。

文:橘川 武郎(きっかわ たけお)国際大学大学院国際経営学研究科教授

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