日本郵船の誕生 近代日本の夜明けを告げた企業間競争の帰結

 日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、1年間にわたって、月1回のペースで、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を振り返ってゆく。

 第1回に取り上げるのは、近代日本の夜明けを告げた1885(明治18)年の日本郵船の誕生である。それは、郵便汽船三菱会社と共同運輸との激烈な企業間競争がもたらした「共倒れ」の危機を回避するための合併がもたらしたものであった。

徳川幕府の開港

 1853(嘉永6)年のペリー(M. C. Perry, アメリカ海軍提督)来航、翌1854年の日米和親条約締結、4年後の1858(安政5)年の日米修好通商条約締結というプロセスを経て、徳川幕府は、鎖国の放棄と開港とを余儀なくされた。すでに「世界の工場」としての地位を固めていたイギリスをはじめとする世界資本主義に直接遭遇することになった日本は、彼我の経済力・軍事力の格差に圧倒されることになった。それを象徴したのは、日本が、各国と締結した修好通商条約において、司法権の侵害(片務的な領事裁判権)と関税自主権の喪失(協定関税制)とを容認せざるをえなかったことである。

 このうち後者は、「世界的に稀な自由貿易主義の実践国に日本を固定し、産業政策の政策手段として保護関税を採用する自由を奪った」(三和良一『概説日本経済史  近現代』東京大学出版会、1993年、23頁)ものであり、日本が関税自主権をほぼ回復するのは、1911(明治44)年の日米新通商航海条約の締結をまたなければならなかった。

深刻な貿易赤字ー海運会社、商社の育成へ

 関税自主権をもたない異常な状況下で、開港後の日本は、深刻な貿易赤字に苦しむことになった。貿易収支の赤字を貿易外収支の改善で少しでも補填しようと考えた。そこで力を入れたのが、国際競争力をもつ海運会社や商社の育成である。

 明治政府が最初に育成しようとした海運会社は、三井などの豪商に命じて設立させた日本国郵便蒸汽船会社であった。「しかし、この会社は能率が悪く経営は不振で、汽船数隻しかもたない三菱商会にすら競争でおくれをとるほどであり、政府の意図は実現しそうになかった。加えて1874(明治7)年の征台の役での軍事輸送をこの会社が断わるという不祥事すら生じた。このとき三菱商会は敢然と政府の求めに応じて軍事輸送を行なったから、政府は三菱商会を保護することを決し、明治八年『第一命令書』を下して三菱を保護会社にした。この時三菱はすでに寄託されていた政府所有船一三隻および日本国郵便蒸汽船会社所有汽船一八隻、合計三一隻の汽船を無償で交付され、毎年二五万円の運航費助成金を支給されることになった。三菱の海運部門は郵便汽船三菱会社と改称され、日本最大の独占的・特権的海運会社となった」(長沢康昭「岩崎弥之助 三菱近代化を担った二代目」安岡重明ほか『日本の企業家(1)明治篇』有斐閣、1978年、48頁)。

 政府の支援を得た岩崎弥太郎率いる郵便汽船三菱会社は、当時、日本周辺の航路を支配していた外国汽船会社へ果敢に挑戦した。まず、上海航路を開拓し、アメリカ系の太平洋蒸汽船会社に競争を仕掛け、それに勝利した。さらに、上海航路や東京・大阪間航路において、イギリス系のピーオー汽船会社との競争にも打ち勝った。

 ただし、政府からの支援に頼る岩崎弥太郎の路線には、大きな落とし穴があった。1881年に「明治14年の政変」が起こり、それまで三菱のうしろだてとなってきた大隈重信が政府より追放されたのである。

 三菱保護から三菱抑圧に方針を転じた明治政府は、1882年に三井や渋沢栄一の協力を得て、郵便汽船三菱会社に対抗するライバルとして共同運輸会社を設立した。郵便汽船三菱会社と共同運輸会社との競争は、熾烈をきわめた。そして両社は、徐々に疲弊の色を濃くし、「共倒れ」のおそれが強まった。

 後世、岩崎弥太郎と渋沢栄一はしばしばライバル視されるようになった(例えば、城山三郎の小説『雄気堂々』新潮社、1972年)が、その背景には、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社とのあいだに繰り広げられた、この激烈な企業間競争がある。

 激烈な競争によって、郵便汽船三菱会社・共同運輸会社とも、深刻な経営危機に直面することになった。そのさなか病に倒れた岩崎弥太郎は、1885年に死去した。

危機回避のための合併

 岩崎弥太郎の死後、郵便汽船三菱会社の社長の座を継いだのは、弥太郎の実弟の弥之助であった。岩崎弥之助は、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社との破滅的競争を終わらせる決断を下した。競争が泥沼化し両社が共倒れになると、その間隙をついて外国汽船会社が日本の近海で勢力を伸ばすおそれがあった。

 この点を懸念した日本政府は、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社とを合併させて新会社を設立する方針に転じた。

現在の日本郵政本社ビル
現在の日本郵船本社ビル(東京・丸の内)

 岩崎弥之助は、この政府の新方針を受け入れ、1886年9月に郵便汽船三菱会社を解散した。翌10月には、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の事業・資産を継承して、新会社である日本郵船株式会社が発足したのである。結果的にみれば、岩崎弥太郎の死後、経営を引き継いだ弥之助の決断によって三菱は、大きな危機を乗り越えることができた。

 郵便汽船三菱会社の解散によって海運業以外で再出発することになった三菱は、積極的に多角化戦略を遂行するようになった。郵便汽船三菱会社の解散は、三菱がその後、大財閥へと成長してゆくうえで、重要な契機となったと言える。

 文:橘川 武郎 国際大学大学院国際経営学研究科教授

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