日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を全12回にわたり振り返ってゆく。第6回で取り上げるのは、「最初の大銀行間合併」である。

三和銀行の設立

 1933(昭和8)年12月、第三十四、山口、鴻池の3銀行の合併により、三和銀行が設立された。第三十四、山口、鴻池の3行は、住友、野村の2行とともに、大阪に本店を置く有力銀行として「安定的な地位を占め、昭和金融恐慌も乗り越えたが、次第に5大銀行との資金量の差が開いた。1932年、三十四銀行頭取の菊池恭三の発議で、住友以外の大阪の有力銀行4行の合併交渉が始まった。最終的に、野村銀行(のちの大和銀行)は合同に参加せず、1933年に3行の合併が実現した」(浅井良夫「6大銀行の成立」経営史学会編『日本経営史の基礎知識』有斐閣、2004年、173頁)のである。

 日本では、三和銀行の設立によって、既存の「五大銀行」(三井、三菱、住友、安田、第一の各行)に三和銀行を加えた「六大銀行体制」が確立した。

帝国銀行の誕生

 しかし、第二次世界大戦の戦時色が深まるなか、「六大銀行体制」を揺るがすような事態が発生した。1943年4月に、三井銀行と第一銀行との合併により、帝国銀行が誕生したのである。帝国銀行の発足は、日本史上初の本格的な大銀行間合併と言えるものであった。

 杉山和雄は、帝国銀行誕生の経緯について、以下のように詳しく説明している。

 「昭和一八年(1943年…引用者)四月実現した三井・第一銀行の合同は、三井銀行取締役会長、万代順四郎(ばんだいじゅんしろう)の提唱によってすすめられた。昭和一二年かれが常務取締役から会長に就任したとき、三井銀行のもっていた弱点は、安田、住友、第一銀行にくらべて、いちじるしい預金の不振であった。昭和一三年には少数店舗主義を改め、支店増設方針をとり、預金吸収に努めたものの、この格差を是正できなかった。一方、三井財閥の重化学工業化がすすむにともない、傘下諸事業の資金需要はますます増加し、ために三井銀行単独でこれに応ずることはもはや困難となっていた。
 このような事情を背景に、万代は三井銀行のあり方につき熟慮し、三井の組織をはなれ、他の大銀行との合同による体質強化の必要性を痛感するにいたった。そして理想的な合同相手として、第一銀行をえらんだ。財閥銀行ではない大銀行というのがその理由であった。
 しかし一三年六月、日銀総裁を介して三井銀行の申入れをうけた第一銀行はこれを拒否した。その理由は、三井も第一も得意先に特色がある、行員の融和がむずかしい、三井の資本が多いなどにあった。また第一銀行の伝統的経営方針である経済道徳合一主義*が、財閥銀行との合同によって損われることへの危惧もあった。
 しかし万代は第一銀行との合同を断念しなかった。戦争の進展にともない、国家の金融統制が強化されるなかで、三井銀行にも第百銀行や昭和銀行との合併談がもちこまれたが、かれはこれを拒み、第一銀行との合同を追求した。そしてかれの計画は、結局、帝国銀行の設立となって実現したのである。(中略)設立された新銀行は、一門閥の機関たる非難を受けないようにとの配慮から、帝国銀行と命名された。資本金二億円、預金五六億円の最大銀行となった」(杉山和雄「銀行合同―安田の大合同と三井・第一の合同―」中川敬一郎ほか編『近代日本経営史の基礎知識《増補版》』有斐閣、1979年、229-230頁)。

短命に終わった帝国銀行

 このように5年の歳月をかけて誕生した帝国銀行であったが、その存続期間は短かった。敗戦後の1948年10月に第一銀行が帝国銀行から分離独立し、残った帝国銀行も1954年1月に三井銀行と改称した。1938(昭和13)年時点で当時の第一銀行サイドが危惧していたことがらが現実化したのが、帝国銀行消滅の基本的理由であったが、そもそも、三井銀行と第一銀行との合併は戦時下の「半強制的な合同」(浅井前掲「6大銀行の成立」173頁)という側面をもっていた点も影響した。

 第一銀行と三井銀行の復活によって、戦後の日本においても、1930年代と同じメンバーで「六大銀行体制」が成立することになった(ただし、安田銀行は1948年に富士銀行と改称した)。「六大銀行」は、それぞれ戦後の「六大企業集団」の中核企業として、活躍を始めた。

* 経済道徳合一主義は、私的利益の追求(経済)と公益の実現(道徳)は、根本的に一致するという考え方。第一銀行初代頭取の渋沢栄一が、強く主張した。

文:橘川 武郎(きっかわ たけお)国際大学大学院国際経営学研究科教授

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