三位一体、三法よし、三本の矢……、「3」という数字には独特の意味合いがあるようだ。

山梨県甲州市。この日本ワイン発祥の地に、それほど歳の変わらない、若い3人の男がいた。宮崎光太郎(1863年生まれ)と土屋龍憲(助次朗、1859年生まれ)と高野正誠(1852年生まれ)である。宮崎は日本初の国産ワイン産業をスタートさせた大日本山梨葡萄酒会社の設立発起人の一人であった。そして、土屋と高野はその大日本山梨葡萄酒会社がワインの本場・フランスへ、ワイン留学に送り出した人物だった。

まだ、あどけない少年の宮崎と若き志に燃えていた2人の青年が、国産ワインの礎を築いた。

2人の留学を見送った宮崎の本心

実は宮崎は大日本山梨葡萄酒会社設立の前、10代の若い頃から、地元の豪農である父・宮崎市左衛門のもとワインの試験醸造を始めていた。「自分もワインの本場に留学したい」。きっとそう思っていたはずだ。明治初期の豪農の一人息子。宮崎家はその財力も持ち合わせていただろう。

だが、若さゆえか、一人息子だったゆえか、息子の希望は父・宮崎市左衛門の猛反対に遭い、宮崎は断念した。土屋龍憲と高野正誠にワイン醸造の夢を託したのである。

土屋と高野はフランスワインの醸造技術・知識を学び、1879年に帰国する。そして、その技術で国産ワイン事業を守り立てていった。

大日本山梨葡萄酒会社では、土屋と高野はその技術を支え、宮崎はやがて販売を担うこととなったという。まさに、3本の矢、トライアングル&トロイカ体制で国産ワイン事業を育てていこうと考えたのだろう。

だが、3人にとって、転機はすぐに訪れた。ワイン造りがまだ未熟であったのか、西洋のワイン造りが日本の風土に合わなかったのか、販売ルートが確立できなかったのか、明治期の殖産興業政策という国策に翻弄されたのか、原因は1つとは限らず定かではないが、国産ワイン事業は結局軌道に乗らず、大日本山梨葡萄酒会社の経営は破綻する。1886年に解散することとなった。

この頃から、早くも宮崎・土屋・高野のなかでは互いの野心が交錯していたのかもしれない。宮崎と土屋は解散した大日本山梨葡萄酒会社の醸造器具などを譲り受け、ワイン醸造を継続させた。その頃から土屋が技術を担い、宮崎は販売を担うようになっていく。

一時期、宮崎は土屋とその弟の3人で、譲り受けた醸造設備をもとに甲斐産葡萄酒醸造所を設立し、共同醸造を開始している。そして1888年、東京に甲斐産商店という組織を設立した。それは、3人が設立した甲斐産葡萄酒醸造所の直営販売店のような位置づけだったのであろう。

どちらが先に袂を分かったのか、自然に芽生えた若き野心に従うままだったのかは正確にはわからないが、1890年頃から宮崎は土屋を離れ、独自に葡萄醸造を始めるようになった。

甲斐産商店は快進撃を続け、1892年、宮崎は自宅のある勝沼に醸造所を建設した。きっと、当時の豪農の家系も彼の野心を支えたのかもしれない。そして同じ頃、土屋も独自にワイン醸造所をつくっていった。