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【古九谷・再興九谷・新九谷】盛衰のラビリンス|産業遺産のM&A

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斬新なデザインの九谷セラミック・ラボラトリー。設計は2020年東京五輪「国立競技場」の設計を担当した隈研吾氏

石川県・加賀地方の伝統工芸の1つ「九谷焼」。色絵磁器として国内はもちろんのこと海外でもつとに有名だが、その歴史は幾度かの栄枯盛衰を重ね、また分派も行われてきた。その系譜は、いわば数多くの経営統合や分散を経て現在にいたる伝統工芸であり、産業技術ということができる。

九谷焼の名称は最初に焼成した地が九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉の奥地)という所在であったことに由来する。藍青色のしっかりした線描と、その上に厚く盛られた緑、黄、赤、紫、紺青の九谷五彩と呼ばれる重厚な上絵。そのコントラストが愛好家を魅了する。

その歴史を簡単に振り返っておきたい。そこには、地方発ながら特殊技術で隆盛を極めた中小企業と、競い合った周辺企業、支えようとした地域があり、さらに同業者同士のせめぎ合い、後継者難を親族外承継で乗り越えるような状況もある。そこに、地方中小企業のM&Aの姿を感じるはずだ。

いまもって確証できない、消えた「古九谷」

九谷焼は17世紀、1650年代に誕生し、わずか40年ほどで終焉を迎えた「古九谷」と、その約80〜100年後、19世紀になってから栄えた「再興九谷」に大別できる。

古九谷の発祥は当時の大聖寺藩の九谷村。現在の石川県加賀市、山代温泉や山中温泉の奥の寒村で、陶石として良質の岩石が発見され、後藤才次郎という藩士が陶磁器の生産が盛んだった肥前・有田に修行に赴き、根づかせたといわれている。

だが、その約40年後には、突如として潰えた。藩の殖産の一環として始められた陶磁器の生産が、なぜ、いとも簡単に潰えてしまったのか。21世紀の今日でも明確に示されてはいない。藩の財政事情か、古九谷の御用品が禁制品となり焼成できなくなったからか、古九谷の中心人物であった後藤才次郎(定次)が、古九谷が禁制品とされると同時に罪人となり他界したからか。即断できないが、突如、深い霧に包まれたように歴史の闇に消えてしまうことは、後世の人にとっては狐につままれたような気持ちにもなるはずだ。

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