たびたび引用している渋沢栄一著の『論語と算盤』(角川ソフィア文庫版)ですが、「それがため折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、ただおのれ一身さえ修めて悪事がなければ宜しいということになってしまった」(常識とは如何なるものか)と嘆いているのは、朱子学が仁義忠孝にとって「智」は欺瞞を招くからと遠ざけようとしたことを批判しています。
智(知)を追求していくと、自分たちを否定するようなこともあり得ます。ですが、それでは「仁/義」は死んでしまいます。
たとえば、私たちはいま、渋沢栄一の時代には当たり前だった「忠」「孝」「悌」をメインに据えていません。
曲亭馬琴による壮大な冒険物語『南総里見八犬伝』では、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある玉が重要な役割を持ちますが、「忠」「孝」「悌」を省いて考えるのは、この3つは、「仁/義」の中にあるものだと解釈したほうがいいからです。
「忠」は主君に対する絶対の忠誠を、「孝」は親に対する絶対の忠誠を、「悌」は兄弟姉妹への忠誠といったように、それぞれが「仁/義」を向ける対象を絞って決めつけてしまっている点が問題なのです。
とくに「智(知)」によって「仁/義」をアップデートしていくことが合理的な現代では、その向かう先を主君(上司)、親、兄弟姉妹に固定してしまうと、主君や親や兄弟が常に絶対的に正しいことになってしまい、知によって得た最新の考え方や事実(データ)を無視しなければならなず、これでは挑戦もできず、発展もありません。
もちろん、親を大事にする、兄弟と仲良くする、上司を敬うことは、別の意味で尊重されていいことですが、なにもかも従うのだ、と決めつける必要はないのです。「仁/義」の中に「忠」「孝」「悌」があるとは、人によって、局面によってそれが目的となったりウェイになったりすることがあり得るからで、全員が絶対的に目的とすべきことではないからです。
この点で「智(知)」はある意味、無情です。「智(知)」だけをメインに据えると心がついていけなくなります。殺伐としていくイメージを「智(知)」は持っていますが、それを穏やかにしたり、先鋭化したりするのが「信」であり「礼」なのです。
※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。
文・舛本哲郎(ライター・行政書士)
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