『言志四録』の魅力は、心にすっと届くような短い文章にある。そこで、1巻目から比較的短い言葉を中心に選んでみた。佐藤一斎の言葉は説教くさく感じることもあるが、江戸末期の困難な時代に、これだけの言葉を後世に残そうとした強い気持ちを感じる。
『言志四録』から101条を抜き出し、「南州手抄言志録」として活用した西郷隆盛。その101条の内訳は『言志晩録』が最も多く、政治家だけではなく、経営者、起業家などにも好まれる言葉が多い。その中から、今回は「克己」という言葉を見ていこう。
時代の変化を学問として学び取り入れていく中で、「仁/義」で賛同した集団であっても集団内の言動までもが強制的に統一される必要はないことを学んだ。大切なのはお互いに学ぶことによって信や礼から変えていくこと。論語はそのとき鏡のような役目を果たす。
思考停止を突破する、学問によってアップ・トゥ・デートしていくには私たちはどうあるべきか。仲間にはなるが、なんでも同意するような存在にはならないこと。学問によって裏打ちされた変化は、むしろ犠牲を最小にできる。そういう道を選択することが大事だ。
智は無情であり、智だけをメインに据えると心がついていけなくなる。それを穏やかにしたり先鋭化させたりするのが「信」と「礼」の役割。この「礼」は信に基づいた過去と現在をつなぐプロトコル(様式)と考えてもいい。そのM&Aのアプローチに礼はあるか。
「論語」の「巻第五 子罕第九」に「知者不惑、仁者不憂、勇者不懼」とある。「知を重視する人は惑うことがなく、仁を重視する人は憂うことがなく、勇を重視する人は恐れることがない」ということだ。果たして、知・仁・勇の関係をどのように考えたのか?
「誠と信で本質を見抜き、義へと進め」と孔子は弟子に告げた。では、その進むべき「義」の正体は? 五常(仁、義、礼、智、信)の全体の関係を踏まえながら、さらに目的(パーパス)との関係を読み解きつつ、ビジネスで活用できるように考えていこう。
古くさい義の捉え方では、いまを生きる私たちにはピンと来ない。仁はその人が行くべき道、義は社会が進むべき道を示し、仁は義とともにあってはじめて役立つので、自分の仁や義、ビジョン・ミッションを社会に受け入れられるようにする努力が求められる。
利とは利益、主に自分にとっての利益。論語は正しい利益はどんどん得てよい、むしろ利益を得なければならないと捉える。ただし「利を見ては義を思い」だ。「自分の利益になるので、ぜひやりたい」と思ったとき、同時に「義」を思ってほしいと孔子は言う。
誰でもいいアイデアと実行力があれば資金を得て起業できる時代。孔子からすれば、群雄割拠どころではなく民のすべてが君子になってくれなければ困る時代です。すなわち「君子」は「誰かエライ人」ではなく、まさに自分たちのこと。その君子がめざす利益とは?
多くの数字を扱うM&Aにおいて数字に強いことはとても重要だが、数字に埋もれてしまっては大切なことを見失う可能性がある。では、最終的に手に入れて満足できる富、利益とはなにか。「ふさわしい方法で得なければ、富や地位を保てない」と孔子は語る。
孔子は、仁を中心に、知識、荘(おごそか、威厳)、礼儀といった要素が合わさって、はじめて多くの人を納得させ行動させることができると考えていたのではないか。仁にはビジョンやミッションが含まれる。前回に続き、「仁の思想」について考えてみる。
今回は論語に頻出する「仁」を現代的にわかりやすく考えていきましょう。たとえば、「巧言令色鮮(すくな)し仁」。論語といえば、まずこの言葉を思い出す人もいるほど有名です。「仁」を字義から解釈すると、「愛、慈悲、思いやり」といった意味になります。
『論語』は3000人ともいわれる孔子の弟子たちによって教団が作られたテキスト、いわば「聖書」であり「教典」である。今回の言葉は「罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所なきなり」。さて、その真意は? 私たちはこの言葉をどう活かせばよいのか。
今回は司馬遼太郎が新聞記者時代に綴ったエッセイの復刊「ビジネスエリートの新論語」を取り上げます。彼が考えたサラリーマンの職業観、そして人生観とは?