知者不惑 知者は惑わず|M&Aに効く論語9

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知・仁、勇、義……何をめざすか(yanik88/iStock)

知を重視すれば惑わされないのか?

「論語」の「巻第五 子罕第九」の冒頭には、「子罕言利與命與仁」とあって、孔子は利益、運命、そして仁についても多くを語っていなかったことが記されています。

 そして同じセクションに「知者不惑、仁者不憂、勇者不懼」とあります。「知を重視する人は惑うことがなく、仁を重視する人は憂うことがなく、勇を重視する人は恐れることがない」と言うのです。

子の曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。

(巻第五 子罕第九)

 知を重視すれば、私たちは惑わされることが少なくなり、仁を重視すれば心配することが減っていくというのですが、知と仁の関係はどうなっているのでしょうか?

 なお、「論語」では「知」が使われ、その後の儒教では「智」が多く(孟子)、その意味は微妙に違いますが、この連載ではほぼ同じとして進めていきます。

知と仁の関係は?

 知を重視すれば、私たちは惑わされることが少なくなり、仁を重視すれば心配することが減っていくというのなら、ここでいう知と仁の関係はどういうことなのでしょうか? 前回(ミッション・ビジョン・パーパス|M&Aに効く論語8)からさらに進めたモデル4をご覧ください。 

モデル4 仁、義、そして智(知)

 仁義の根幹は普遍性を持っていますが(究極としては「愛」なのでしょう)、それを時機に応じて変化させていくのが、「智、礼、信」なのです。

「智(知)」には、叡智、知性、知識、知力、経験知などさまざまな「知」が含まれています。

 そして「智(知)」は、「仁」の「ミッション/ビジョン」という世界と、「義」の「パーパス/ウェイ」の世界と深くつながっています。

 前回は義=パーパスとしていましたが、これは企業によってはウェイ(Way)とも呼ばれているので、今回は追加しています。自分たちの流儀、やり方として「これはやる、これはやらない」と決めるときの軸になる考えが、仁と義にはあるのです。

知識、叡智によって「義」を正しく認識する

 ただし、パーパスもウェイも、内向きのものと、外部ともつながったものがあって、そこを取り違えると社会性の欠けた、間違った「義」になっていきます。反社会の義は、自分たちだけの内向きの義です。企業や社会とのつながりを求めている私たちにとっての義とは、そこが大きく違います。

 とはいえ、世の中が間違っていることもあり得るので、ここではこれ以上、深くは論じません。歴史を見れば、義を欠いた非常識な行動が、のちに勇気ある行動だったと称賛されることも皆無ではないので。

「知者は惑わず、仁者は憂えず」の意味として、知識、叡智によって「義」を正しく認識することが求められているのです。自己中な「義」にならないよう、そして「仁」にならないよう、その時々に、知との対話によってなにが正しい道かを明らかにしていかなければならないのです。

「知」は「仁/義」に対して常に挑戦的 ?

 細かいことを言えば、「知」は常に「仁/義」に対して挑戦をしているのです。「それで正しいと言えるのか?」と。「いまの時代、それでいいの?」と。そのため、自分たちの「仁/義」こそが正義と決めつけてしまうと、「知」による疑問は、「あってはならない」となりがちなのです。

 実際に、歴史でも、また孔子の教えから発展した朱子学においても、宗教的な絶対を求めていく過程で、「知」をないがしろにしていく傾向がありました。自分たちの信じているものが揺らぐことを、受け入れられなかったのです。

 現代に生きる私たちは、そんなことはないはずですが、残念ながらいまもなお、知を受け入れることには限界があるような気もします。

 相手を説得するためには、相手の「仁/義」がどのようなものかを「知」として認識しておくことも必要となります。そこに、こちらの「仁/義」と重なる部分はあるのか。そして相容れない部分はどこか。それを見つけていくことも、合併やM&Aにおいては、重要な摺り合わせになることでしょう。

渋沢栄一が噛みついた「知」の重要性

「智」のみを追求すると欺瞞を招くのか(artisteer/iStock)

 たびたび引用している渋沢栄一著の『論語と算盤』(角川ソフィア文庫版)ですが、「それがため折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、ただおのれ一身さえ修めて悪事がなければ宜しいということになってしまった」(常識とは如何なるものか)と嘆いているのは、朱子学が仁義忠孝にとって「智」は欺瞞を招くからと遠ざけようとしたことを批判しています。

 智(知)を追求していくと、自分たちを否定するようなこともあり得ます。ですが、それでは「仁/義」は死んでしまいます。

 たとえば、私たちはいま、渋沢栄一の時代には当たり前だった「忠」「孝」「悌」をメインに据えていません。

 曲亭馬琴による壮大な冒険物語『南総里見八犬伝』では、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある玉が重要な役割を持ちますが、「忠」「孝」「悌」を省いて考えるのは、この3つは、「仁/義」の中にあるものだと解釈したほうがいいからです。

「忠」は主君に対する絶対の忠誠を、「孝」は親に対する絶対の忠誠を、「悌」は兄弟姉妹への忠誠といったように、それぞれが「仁/義」を向ける対象を絞って決めつけてしまっている点が問題なのです。

 とくに「智(知)」によって「仁/義」をアップデートしていくことが合理的な現代では、その向かう先を主君(上司)、親、兄弟姉妹に固定してしまうと、主君や親や兄弟が常に絶対的に正しいことになってしまい、知によって得た最新の考え方や事実(データ)を無視しなければならなず、これでは挑戦もできず、発展もありません。

 もちろん、親を大事にする、兄弟と仲良くする、上司を敬うことは、別の意味で尊重されていいことですが、なにもかも従うのだ、と決めつける必要はないのです。「仁/義」の中に「忠」「孝」「悌」があるとは、人によって、局面によってそれが目的となったりウェイになったりすることがあり得るからで、全員が絶対的に目的とすべきことではないからです。

 この点で「智(知)」はある意味、無情です。「智(知)」だけをメインに据えると心がついていけなくなります。殺伐としていくイメージを「智(知)」は持っていますが、それを穏やかにしたり、先鋭化したりするのが「信」であり「礼」なのです。

※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。

文・舛本哲郎(ライター・行政書士)