トップ > 調べる・学ぶ > 連載 > 地方承継の時代 >「イトムカ鉱山」日本最大の水銀採掘地はいま|産業遺産のM&A

「イトムカ鉱山」日本最大の水銀採掘地はいま|産業遺産のM&A

alt
東洋一の水銀生産量を誇ったイトムカ鉱山の発祥之地碑

1973年に閉山、環境事業に舵を切る

野村興産は現在、東京中央区に本社を置き、廃乾電池・廃蛍光灯のリサイクルはもちろん、日本唯一の水銀リサイクル処理企業として知られる。

1939年、開発に着手した水銀の大鉱床をイトムカ鉱山、イトムカ鉱業所と名づけたのは野村興産の前身である野村鉱業であった。イトムカとはアイヌ語で、「光り輝く水」の意味だという。

1973年、イトムカ鉱山の閉山を機に、イトムカ鉱業所(野村鉱業)をイトムカ興産という社名に改称した。鉱山・鉱業所の閉鎖を機に、その地を産業勃興(興産)の地とすべく事業の舵を大きく切った。

イトムカ興産はイトムカ鉱山が閉山した翌1974年に、野村鉱業からイトムカ鉱業所の一切の技術、設備などを買収し、水銀採掘ならぬ水銀処分施設に転換、水銀含有廃棄物の処理を中心に廃棄物処理事業を開始した。その後、関西の大和金属鉱業を買収し、子会社とするとともに、計量証明及び水銀など非鉄金属の回収製錬を事業の核に据えた。

大規模最新鋭の産業廃棄物処理施設となったイトムカ鉱山(鉱業所)

商号を野村興産と変更したのは1975年2月のことだ。以後、野村興産は使用済み乾電池や使用済み蛍光灯の処理委託業務を始めた。さらに1980年代からは環境分析センタ-を開設し、計量証明事業を開始した。計量証明事業とは、有償・無償を問わず、長さや質量、面積・体積、熱量、濃度、音圧や振動加速度レベルなどの物象の状態の量をはかり、その結果を公にまたは業務上他人に一定の事実が真実である旨を表明する事業(北海道庁などのホームページの要約)のことだ。

さらに、国庫補助事業としてクリ-ン・ジャパン・センタ-と共同で水銀含有廃棄物の再資源化実証プラントを竣工し、全国都市清掃会議から「使用済み乾電池の広域回収処理センタ-」に指定されるまでになった。全国都市清掃会議とは、「廃棄物処理事業を実施している市区町村等が共同して、その事業の効率的な運営及びその技術の改善のために必要な調査、研究等を行うことにより、清掃事業の円滑な推進を図り、もって住民の生活環境の保全及び公衆衛生の向上に役立てる」ことを目的に、1947年に設立された公益社団法人である。

数々の技術賞を受賞

野村興産のホームページによると、同社では1989年に医療廃棄物、廃試薬等の専用処理施設、高温焼却炉を完成させ、1992年には水銀試薬の製造を開始した。

その後1997年には、エネルギー・資源学会において「使用済み乾電池のソフトフェライト原料へのリサイクル技術」についてTDKと共同で第10回技術賞を受賞、環境庁から「使用済み蛍光灯から断熱材、グラスウールの再生技術」について地球温暖化防止に貢献するものとして環境庁長官賞を受賞する。さらに、1998年には当時の留辺蘂町より、長きにわたる社会貢献と地元振興発展に貢献した功績が認められ、特別功労賞を受賞した。

2001年に関西の事業基盤強化のため、子会社であった大和金属鉱業を吸収合併し、2007年には、循環型社会形成推進功労者として、環境大臣表彰を受賞した。

東洋一の生産量を誇った水銀採掘は“いとむかし”の話ではない。その後の“静脈産業”としての180度の転換の歴史は、鉱山という山間壁地の利を最大限に生かした産業の大転換だった。野村興産では大きな事業転換によって培われたダイオキシン測定などの分析業務を継承し、再資源化技術の開発と事業化の推進によって、日本全体の環境負荷削減の一役を担っている。

文:菱田秀則(ライター)

NEXT STORY

アクセスランキング

【総合】よく読まれている記事ベスト5