「義」は古くさい考えか?|M&Aに効く論語6

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仁義は暴力団の言葉?

 仁については、すでにいまを生きる私たちとして「仁とはビジョン・ミッションである」とこの連載では解釈してきました。

 そして、義は、「仁義」という言葉があるように、仁と義のワンセットとして長く考えられてきています。儒教の根本的な考えを現しています。

「ほーら、やっぱり古いじゃないですか。いまどき仁義なんて。いまの時代、とっくに『仁義なき戦い』になっているんですよ」

 ええ、まあ、あの映画の影響は大きいのですが、そもそも暴力団にとっての仁義は、孔子の仁義とはちょっと違います。博徒や暴力団にとっての「じんぎ」は「辞宜(辞儀)」と表記すべきで、そのまんま「挨拶」つまり「おじぎ」のことなのです。

 もっとも、そこに仁義の文字をあてたところから、その後にはより深い意味を持たせて来ているとは思います。儒教の教えと合致させている部分もあるのです。

 しかし、一般的にこの場合の仁義は、あくまでも反社会的な者たちの「組織」としての掟であり、決まりごとであり、それをはっきり見せる場としての「辞宜(辞儀)」(おじぎ)であり、礼儀なのです。

 このような特殊な世界での「仁義」が一般的になってしまったために、私たちは、あまり口にしない言葉になってしまったのは残念なことです。

 義とは、儒教の五常「仁義礼智信」の中に含まれていて、以前にこの連載でも書いたように、孔子の世界観としては、中心に仁があり、その惑星としての「義礼智信」があるとイメージした方がわかりやすいでしょう。

「義礼智信」は、常に、中心にある仁と相互に作用した上で、仁にふさわしい義礼智信として発揮されるものなのです。

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