利とは、前回から考えていますが利益のことであり、主に自分にとっての利益です。論語は他利ばかりを求めているのではありません。正しい利益はどんどん得ていいのです。むしろ利益を得なければならないのです。
ただし、「利を見ては義を思い」です。
「これは、自分にとって利益になる。だから自分にとっていいことなので、ぜひやりたい」と思ったときに、同時に「義」を思ってほしいと孔子は言うのです。
子路、成人を問う。子の曰わく、(中略)利を見ては義を思い、危うきを見ては命を授く、久要(きゅうよう)、平生の言を忘れざる、亦た以て成人と為すべし。(巻第七、憲問第十四)
孔子の門弟の一人、子路が「成人とはどういう人か?」と孔子に質問をしたとき、成人(本当の意味でのオトナ)とは、「利益を前にしたときこそ『義』を考える人であり、危険を前にしたときこそ、自分の一命をささげてでも対応でき、誰もが忘れてしまったような古い約束についても忘れず、日常のちょっとした発言も忘れないでいられる人」と孔子は答えたのです。
では、「義」とはなんでしょう。上記の孔子の言葉を訳するときは、よく「正義」と表現されます。ですが、正義と言ってしまうと、私には多少の違和感があるのです。
「なんだか、面倒臭いものじゃないですか? 古くさい観念じゃないですか?」
そう感じてしまうのもムリはありません。あまりにも儒教は古い家制度(家長制度)や封建制度とガッチリと組み合ってしまっているので、学ぼうとするときに、「やっぱりいまの時代にはまったく関係ないのでは?」という気がしてしまうのです。
ですが、「義」を避けて論語を語ることはできません。
仁については、すでにいまを生きる私たちとして「仁とはビジョン・ミッションである」とこの連載では解釈してきました。
そして、義は、「仁義」という言葉があるように、仁と義のワンセットとして長く考えられてきています。儒教の根本的な考えを現しています。
「ほーら、やっぱり古いじゃないですか。いまどき仁義なんて。いまの時代、とっくに『仁義なき戦い』になっているんですよ」
ええ、まあ、あの映画の影響は大きいのですが、そもそも暴力団にとっての仁義は、孔子の仁義とはちょっと違います。博徒や暴力団にとっての「じんぎ」は「辞宜(辞儀)」と表記すべきで、そのまんま「挨拶」つまり「おじぎ」のことなのです。
もっとも、そこに仁義の文字をあてたところから、その後にはより深い意味を持たせて来ているとは思います。儒教の教えと合致させている部分もあるのです。
しかし、一般的にこの場合の仁義は、あくまでも反社会的な者たちの「組織」としての掟であり、決まりごとであり、それをはっきり見せる場としての「辞宜(辞儀)」(おじぎ)であり、礼儀なのです。
このような特殊な世界での「仁義」が一般的になってしまったために、私たちは、あまり口にしない言葉になってしまったのは残念なことです。
義とは、儒教の五常「仁義礼智信」の中に含まれていて、以前にこの連載でも書いたように、孔子の世界観としては、中心に仁があり、その惑星としての「義礼智信」があるとイメージした方がわかりやすいでしょう。
「義礼智信」は、常に、中心にある仁と相互に作用した上で、仁にふさわしい義礼智信として発揮されるものなのです。
ここでちょっと孟子の手を借りますが、孟子は孔子の時代よりのちの時代の人で、彼が学問をしているときすでに孔子は亡く、その弟子に教えを受けたとされています。それでいて、儒教では孔子に継いで重要な人物とされ、儒教を「孔孟の教え」と呼ぶほどです。
この孟子の考えでは、仁と義の関係は、どちらも仁の中にある2つの面ということになります。義は仁から出てきた、いわば切り口を変えた仁なのです。
孟子は、仁を人が持って生まれて備わっているものと位置づけ、義はあらゆる人が取るべき正しい道筋だと考えました。
このように、義には「正しい道」といった意味が含まれています。これは個人の考えの及ばない、いわば物理法則のようなもので、誰にとっても正しい道があるのだ、という前提があるのです。
仁はその人がこの世に生まれて活動するにあたってのビジョン・ミッションとすれば、義はこの世に歴然として存在する理屈、たとえば川は山から海へ流れ、物は引力によって地球に引っ張られ、人は老いて死ぬ、といった、私たちがいてもいなくても当然そうなっていく道筋のことです。ただし、こうした物理法則も条件によっては、当然ではない場面があることもいまの私たちは知っています。
このため、「世界共通の正しい道などというものは、存在しないのではないか?」と思われる人も多く、それぞれの立場(国、文化、性別など)から見て、いくつも正しさがあると考えるべきでしょう。
それぞれの正しさをぶつけ合って、屈服させ合うのではなく、相互理解によってより高い次元で共棲することが望ましいのです。
それでは「義」はいったい私たちにとって、どういうことなのか。コンプライアンスを守ることなのでしょうか? 次回、さらに考えていきましょう。
※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。
文・舛本哲郎(ライター・行政書士)