『北恵那交通株式会社 設立100周年記念誌』によると、旅客輸送のピークは1965年度の 149万5375人。1958年度から1970年度までは年間100 万人台を維持していた。1日3000人弱が昇降する山間の人気路線だった。
ところが1977年度は17万人台に急減した。貨物も同様の推移をたどり、ピークは1964年度の約13万9000トン。鉄道収入のピークも1967年度の約8000万円だったという。1960年代が北恵那鉄道の最盛期であり、70年代に入ると、旅客・貨物とも鉄道の役割は終わった。運転開始から50余年の歴史を経て、1978年に北恵那鉄道の廃線が決まった。
現在、北恵那鉄道は廃線から45年ほど経つが、廃線跡を探索する“廃線ファン”にとっては人気のマト。特に、木曽川を渡る県道6号線の玉蔵橋そばの木曽川橋梁は全長が134mあり、水面からの高さは15m、木曽の風雪に耐え往時の雄姿を見せ、廃線跡探索ファンには“奇跡の鉄橋”とも呼ばれている。
また山間にひっそりと屹立する上地橋梁は、石積みの美しい橋脚が間近に見られることで好事家垂涎の撮影スポットである。

北恵那交通では名鉄グループに入った翌1964年に、奥恵那峡観光を事業とする木曽川遊船を設立した。ところが1968年には同社を恵那観光開発に譲渡した。
1954年には貸切バス事業に進出したり、1966年にはタクシー営業を開始したりと、鉄道とバスの二本建に加え、新事業への進出とともに事業の選択と集中を重ねてきた。そして1978年、北恵那鉄道の廃線とともに鉄道運送の業務を廃止し、1979年には北恵那交通に社名を変更した。2013年には長く続いたタクシー事業を東鉄タクシーに譲渡している。
本業は鉄道会社から撤退し、バス会社に転換したが、2000年代に入り、本社を置く中津川から撤退するバス会社が出てくるようになり、そのバス会社の路線を継承するなどした。その際には名鉄グループの傘下にあったため、同グループの濃飛乗合自動車や東濃鉄道の一部路線を受け継ぐなど、同グループ内での調整もあった。それは公共色の強い路線バス事業の継続と承継の難しさを示している。
文:菱田秀則(ライター)
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