けん玉は遊戯の多様さから何回もムーブメントを起こした。大正期から昭和初期にかけて、国内はもちろん海外へ輸出される工芸品ともなった。
子どもから大人を巻き込み、競技も活発になった。1970年代には市内で6軒以上の木工工場が、年間約40万個のけん玉を生産していたようだ。
だが、ブームは永続しないからこそ、ブームである。市場・需要の変化、職人や製造業者の経営者の高齢化なども相まって、木工職人が勤める製造業者の経営は成り立たず、転廃業も続いた...
通天閣は第二次大戦前までの初代と戦後再建された2代目、合わせて100余年にわたり大阪のまちのシンボルとして建つ。その間、3 度にわたり所有者が変わってきた。