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「旧碓氷社」に農協の原初を見る|産業遺産のM&A

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ショッピングセンターの駐車場の隅に立つ旧碓氷社の本社事務所(群馬県安中市)

群馬県安中市、国道18号線を安中市街から磯部・松井田方面に走ると、ヤオコー安中店などの大きなショッピングセンターがある。その広い駐車場の傍に、古い木造の事務所風の建物が置かれている。1878(明治11)年に設立された日本を代表する組合製糸、旧碓氷社の本社事務所だ。

萩原鐐太郎らが立ち上げた、農民のための組合

組合製糸、もう少し正確に言うと、農民による組合製糸結社(組織)である。元々は、磯部の豪農として知られた萩原鐐太郎が、萩原音吉、専平らとともに座繰製糸を営む養蚕農家が集まり、まず碓氷座繰精糸社という組織を立ち上げた。

座繰糸とは幕末から維新期にかけて、農民が自宅で座って繰った糸。繰糸者が大きな鉄鍋の前に座り、数百粒の繭を入れて加熱し、木の棒でかきまぜて糸口を出して鍋の周りに上げて糸を繰る、いわば古典的な繰糸法だ。碓氷座繰精糸社では農民が組合員となり、座繰糸を組合が共同で湯返しなどを行い、出荷していた。

組織の設立時には組合員である農民が実質的に自分の家の繭を組合に差し出し、それを組合で混合し、組合員の子供らに繰糸する方法をとっていたという。しかし、この方法では繭・糸の出来などの評価が分かれ、その評価に対する農民の不満も多かったようで、製糸については組合が行うことになった。

組合としては養蚕・製糸技術の改良や共同での揚返しによって品質の統一を図り、共同で出荷することによって大量の生糸を生産し、売り込んでいった。

この組織の中心的人物が、地元の豪商、萩原鐐太郎である。碓氷社を創立する前後の頃、横浜港の開港により生糸の輸出量が急増し、勢いそれが粗製乱造につながっている面もあった。そのため糸の値段は急落した。当然、生糸の生産農家は収入が減り、苦境に陥る中で農家を組合員としてまとめたのが碓氷社である。

碓氷社はたくさんの生産農家をまとめることで、多種類の糸を大量に集め、それらを均一の品質に分類して輸出した。品質により値段に差があることを前提とした出荷のため、その信用は高まり、生糸の価格は維持され、取引が拡大した。この“適正価格”によって生み出された利益は農家に分配され、地域を豊かにした。まさに、今日の生産組合的な事業を推進した。

業績を拡大し、大規模な組織に

碓氷社の成功により、同様の組合が安中周辺から東の前橋にかけて、いわゆる西上州に次々に誕生した。碓氷社も発展し業容を拡大、1910年には当時の産業組合法の適用を受け、有限責任信用販売組合聯合会「碓氷社」となった。約180の個別組合の連合組織であり、うち50組超は県外組合だった。当時、組合員総数は3万人を超えていたという。

碓氷社では座繰糸を提唱していたが、一方、明治末期から昭和初期には企業が主体となって器械で糸を繰る器械糸が中心になっていった。端的に言うと農家の家内工業から、企業による機械化への産業の大転換である。この手法の中心的存在が富岡製糸場ということもできる。

碓氷社の各組合でも器械糸の生産に傾注していく。と同時に、座繰糸をメインに扱っていた碓氷社の経営は厳しくなっていった。碓氷社では、座繰糸から器械糸へのトレンドに組織としても馴染みにくいと反発した面もあったが、その経営は厳しくなる一方だった。

当然のように組合を離れる者も増え、県外の組合の独立もあり、さらに製糸業の資本家の台頭もあって、碓氷社の経営はより厳しくなっていった。1930年代には繰糸を組合員の自宅ではなく、組合本社直営の製糸所に集中させるようになったという。

しかし、そこで第二次大戦が始まった。戦禍に製糸業も飲み込まれていく。1942年には戦時統制により、碓氷社は解散することを決定した。

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