滋賀県の県庁所在地は琵琶湖南西岸、県最西部の大津市である。だが、その滋賀県唯一の地銀である滋賀銀行は1933年10月、湖東・彦根市に本店のあった第百三十三銀行(百卅三銀行と記すケースもある。「卅」は30のこと)と同じく湖東・近江八幡市にあった八幡銀行が対等合併して誕生した。
明治期から昭和初期にかけて、滋賀県の経済の中心地は京都に近く宿場町として栄えた大津市よりむしろ、平野が広がり35万石の城下町として栄えた彦根、近江商人の活躍した近江八幡方面だったのかもしれない。
では、なぜ彦根と近江八幡に本店を置く湖東の主要行が合併銀行の本店を県西部の大津に置いたのか。背景をたどってみると、湖東と湖西の“県庁争奪戦”が見えてくる。
県公文書館によると、大津と彦根の間では明治期と昭和期の2度、大津から彦根への県庁移転騒動に見舞われている。
明治期の県庁移転騒動は1891年のこと。その理由は、大津が県庁では滋賀県北部の住民が不安・不満を覚えていること、当時は彦根のほうが交通網は発達し、大津よりも人口が多かったことなどがある。実際に県会では過半数の賛成を得て、この建議が通過した。
ところが当時の県知事・大越亨は「県会で議論すべきことではない」と、中止を命令する。瀬田川の橋梁など他の課題も抱えていた県会は紛糾した。翌1892年、内務大臣が県会を解散させて県会議員選挙が行われ、県庁移転問題は立ち消えとなった。
昭和期の移転騒動は1936年のことだ。その理由は、県庁が県最西端の大津にあるのは県全体にとって不便であり、苦痛ですらあること、大津に県庁を置いた当時の琵琶湖水運の機能が失われたこと、などがある。
湖東の主要都市にあった2つの銀行が合併し、湖東を離れた県庁所在地の大津市に滋賀銀行が誕生したのは、昭和期の県庁移転騒動の3年前である。どこに、どのように県中枢の金融機能を置くか。おそらく県会レベルとは別に、侃侃諤諤の議論があっただろう。
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