「兵庫県の有力地銀は?」と聞かれて即答できる人は多くはないはずだ。歴史を振り返ると、昭和初期、国の一県一行主義によって兵庫県内に本店を置いていた40行を超える金融機関のほとんどは、有力7行が合併して誕生した神戸銀行に集約され、その神戸銀行は太陽銀行を吸収し都銀への道を突き進んだからだ。太陽神戸銀行はやがて太陽神戸三井銀行、さくら銀行、三井住友銀行へとM&Aを繰り返していく。
一方、長く神戸で地盤を固めていた第2銀の兵庫銀行は系列ノンバンクの過剰融資などがたたり、経営破綻に追い込まれた。現在は解散し、営業はみどり銀行からみなと銀行へと引き継がれている。
この兵庫県の金融界を振り返るとき、「兵庫県は南に瀬戸内海、北に日本海に面し、阪神地区と日本海側ではまったく異なる文化圏。日本海側には但馬銀行という地銀がある」と気づく人もいるだろう。そこでまず、但馬銀行のM&A史を振り返ってみよう。
但馬銀行は1897年に創立した美含銀行が源流である。その後目立ったM&Aはなく、1932年に香住銀行、1956年に但馬銀行と商号変更し、今日に至る。神戸には神戸支店をはじめ数支店・出張所を構えているが、あくまで営業基盤は行名どおり兵庫県北部・但馬地方にある。
では、兵庫県における経済の中心地・阪神地区において地域金融機関として地歩を固めているのは?それが尼崎信用金庫である。一般的には尼信(あましん)の名で親しまれる地元有力信金だ。
神戸銀行に集約されていった県内金融機関にあって、地域限定の営業エリアで事業する地元信金をメインバンクとする県内企業は多い。なかでも尼崎信用金庫は2020年の帝国データバンクによる兵庫県メインバンク調査でも第4位(4381社)、シェア8.53%と信金業界、特に兵庫県内の信金のなかでは群を抜いた存在である。
尼崎信用金庫の歴史をM&Aを中心に見ていこう。
尼崎信用金庫は1921年6月、有限責任尼崎信用組合として創業した。1943年7月、市街地信用組合法により尼崎信用組合と改称。当時の信用組合は営業地区が限定されていたが、尼崎信用組合は1951年8月、当時の伊丹市、川辺郡川西町・同長尾村・同宝塚町、現在の伊丹・宝塚・川西市といった尼崎から北の地域に営業地区を拡張していった。
そして同年10月、信用金庫法により「尼崎信用金庫」と改称した。1956年7月には大蔵省(当時)の要請で大阪に本店のあった第一貯蓄信用金庫の再建整備に当たる。その後65年3月、第一貯蓄信用金庫を吸収合併し、営業地区を大阪市一円に拡張した。当時の信金においてM&Aは営業地域の拡大を図る有効な手段の1つであった。
66年12月には尼崎市周辺の西宮市・芦屋市・猪名川町に営業地区を拡張し、69年8月には大阪府の豊中市・池田市・箕面市に営業地区を拡張した。さらに70年10月に吹田市・摂津市・豊能郡に、71年9月に神戸市葺合区・灘区・東灘区と大阪府茨木市・高槻市に、72年11月に東大阪市に営業地区を広げた。
73年9月に兵庫県三田市、神戸市兵庫区ほか4区、大阪府の守口市・門真市・八尾市・大東市に営業地区を拡張。74年4月に浪速信用金庫と合併し、尼崎浪速信用金庫となった。着実に尼崎から大阪府の各市町へと、まるで兵庫・大阪、阪神地区一帯のジグソーパズルのピースを埋めるように営業地区を広げたのだ。
M&Aで誕生した尼崎浪速信用金庫は、大阪府堺市・松原市・藤井寺市・羽曳野市・富田林市・大阪狭山市・美原町・河内長野市・柏原市・寝屋川市・四条畷市・高石市・泉大津市・和泉市を営業地区に加えた。
そして89年4月には名称から「浪速」を取り、「尼崎信用金庫」に改称、平成に時代が代わり、金庫名を元に戻したということになる。
同年5月に兵庫県三木市・大阪府枚方市に、6月には兵庫県吉川町・大阪府岸和田市・忠岡町に営業地区を拡張。98年7月に兵庫県篠山町(現丹波篠山市)・丹南町・今田町・東条町・社町を営業地区に加えた。2002年3月には、関西西宮信用金庫から事業譲受を行った。
ジグソーパズルというより、むしろオセロの“石”をひっくり返すように、積極果敢に営業地区を拡大していった。
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