日本各地の「地銀」のルーツをたどってみよう。そのM&A=合従連衡の歴史をひも解けば、銀行や金融経済の成り立ちはもちろん、日本の伝統産業、商業の集積の移り変わり、各都道府県内にある市町村の歴史の“格”の変遷なども見えてくる。“ご当地銀行”の合従連衡史の15回目は新潟県。

県面積も全国5位と大きいが、南北に延々と長い新潟県。南端から北端までの距離は約300キロメートル。この距離は東京・名古屋間、大宮・仙台間、鹿児島・博多間に匹敵する。

その新潟県のトップバンクは第四銀行。明治期の第四国立銀行の流れを組む“ナンバーバンク”で、創立時の行名を残す最古の銀行として、その歴史、営業エリア、預金量(4兆8401億円)や貸出金残高(3兆2461億円)などを総合的に見ても、地銀の代表格といえる。

いったんは新潟銀行と称するも……

まず、第四銀行の沿革から概観していこう。

第四銀行の創立は廃藩置県によって日本に県制が敷かれた2年後の1873年。旧士族や豪農・大地主などが国立銀行設立に向けた名乗りを挙げ、文字どおり4番目に認可を受けたことから名づけられた行名だ。

当時、新潟は長崎、横浜、神戸などと並ぶ港湾都市で、日本海の交易ではひときわ重要な存在だった。そのため、維新後、早期に国立銀行の設立認可が下りたのであろう。発起人は市島徳次郎という豪農。1886年に作成された『越後持丸鏡』という新潟県内の“長者番付”によると、旧北蒲原郡天王村(現新発田市)の出身で、大地主として納税額も全国1位となった人物だという。

国立第四銀行は、国立銀行の営業年限である20年を経て、営業満期国立銀行処分法により第四銀行に改称し、私立銀行として営業を継続した。しかし、その後1896年、いったんはナンバーを捨て地名を選び、新潟銀行と称するようになった。

再び第四銀行に名称を戻したのは1917年のこと。2000年まで存続していた新潟証券取引所に上場したのは1962年。73年に創立100周年を迎え、75年には東証1部に指定替え。その後、銀行サービスの多様化、金融自由化のなかでニューヨークや香港などに海外支店を置き(その後、海外支店は廃止)、2013年には創立140周年を迎えた。