日本各地の「地銀」のルーツをたどってみよう。そのM&A=合従連衡の歴史をひも解けば、銀行や金融経済の成り立ちはもちろん、日本の伝統産業、商業の集積の移り変わり、各都道府県内にある市町村の歴史の“格”の変遷なども見えてくる。

“ご当地銀行”の合従連衡史の28回目は、伊予銀行<8385>。地元では「いよぎん」の名で親しまれる銀行だ。そのルーツは第二十九国立銀行と第五十二国立銀行。2つの国立銀行と周辺の私立銀行がさまざまなM&Aを重ねて誕生した銀行である。

県西部に散在した銀行類似会社と私立銀行のM&A

伊予銀行の源流は、1868年の明治維新の直前、慶応4年に宇和島藩に設立された種生講(みばえこう)だとされている。地元の庄屋が自身はもちろん仲間からお金を集め、彼ら拠出者から利息を徴収するとともに、くじ引きで利用者を選ぶ、いわゆる銀行類似の組織である。種生講はのちに種生(しゅせい)会社という組織に成長し、現在の伊予銀行へとつながっていく。

明治初期、この種生講という組織のほかにも、伊予銀行の誕生には松山の興産会社や栄松社、宇和島の信義社という銀行類似会社が関わっている。このうち興産会社は、1868年に設立された商法社と1870年に設立された興産社という2つの銀行類似会社が合併して生まれた。まだ第二十九国立銀行と第五十二国立銀行が設立される前、愛媛県の金融史というよりむしろ金融前史というべき時代の出来事かもしれない。

第二十九国立銀行と第五十二国立銀行が開業したのは、ともに1878年のこと。その一方で、愛媛県下には1880年に楽終社や南鎨社という銀行類似会社が生まれている。そして同年に、宇和島銀行という愛媛県下初の私立銀行が誕生している。

第二十九国立銀行が設立されたのは県庁所在地の松山市より県南西端の宇和島市に近い現在の八幡浜市であった。明治初期の愛媛県金融の主戦場は、松山よりさらに県西部・南部に寄っていたのかもしれない。

伊予銀行のルーツをさらに探っていこう。種生講という銀行類似会社は、1875年に種生会社に改称し、1893年に株式種生会社となった。その後、1919年に卯之町銀行になり、大野成業銀行、多田銀行を傘下に収めた。宇和商業銀行と合併して1931年に宇和卯之町銀行となった。

宇和卯之町銀行は、1938年に予州銀行となる。予州銀行は1934年に大洲銀行、第二十九銀行(第二十九国立銀行の後継銀行)、八幡浜商業銀行が合併して生まれた銀行で、1941年に今治商業銀行と松山五十二銀行(第五十二国立銀行の後継銀行)と合併して伊予合同銀行が誕生した。ここに、第二十九国立銀行と第五十二国立銀行がつながり、1951年に現在の伊予銀行が誕生した。

ちなみに伊予銀行はずっと伊豫銀行と表記していた(伊予合同銀行、予州銀行も正確には「伊豫」「豫州」である)。銀行名を「伊予」に変更したのは、同行がCI(コーポレート・アイデンティティー)を導入した1990年9月のことだ。