日本各地の「地銀」のルーツをたどってみよう。そのM&A=合従連衡の歴史をひも解けば、銀行や金融経済の成り立ちはもちろん、日本の伝統産業、商業の集積の移り変わり、各都道府県内にある市町村の歴史の“格”の変遷なども見えてくる。“ご当地銀行”の合従連衡史の20回目は、島根県である。

地元では、「山陰合同」という名称より「ごうぎん」の名で親しまれている山陰合同銀行<8381>。「合同」の名称は、1889年8月に設立された松江銀行(島根県松江市)と1894年1月に設立された米子銀行(鳥取県米子市)の合併による。

島根県の松江、鳥取県の米子など位置関係がよくわからないという人もいるので、「山陰の中海という湖の東側、鳥取県の西端に米子市があり、西側の宍道湖と中海の間に島根県松江市がある」ということを押さえておきたい。島根県・鳥取県ともに東西に細長く、その結節点に米子・松江を中心とした中海・宍道湖経済圏があるということになる。

消滅した2つの国立銀行

まず、島根県の松江銀行が誕生した当時の県内の金融動向を振り返っておきたい。

明治初期、島根県には2つの国立銀行があった。1878 年に松江に設立された第七十九国立銀行と、同年 12月に津和野に設立された第五十三国立銀行で、いずれも旧藩士によって設立された士族銀行である。

だが、2つの国立銀行はいずれも、設立後、金融事業が脈々と受け継がれてきたわけではない。明治期の末には、経営難とそれに伴うM&Aなどによって消滅する。いわば、松江銀行は島根県内の国立銀行に代わって県内金融界をリードしてきた私立銀行であった。

島根県において初めて設立された私立銀行は、1885年設立の浜田銀行である。浜田は島根県石見地方の中核都市で、浜田銀行は第五十三国立銀行が普通銀行となった五十三銀行を1903年に吸収している。一方の第七十九国立銀行は、大阪に本店を移すものの経営難に陥り営業停止、消滅の道を歩む。

松江独自に経済圏が発展

松江銀行は県内私立銀行としては、浜田銀行に次ぐ2番手だった。しかし、東西に細長い島根県は、規模の広がりのある経済圏をつくってきたとはいいがたく、松江は島根県の東端で、松江銀行を中心に独自の経済圏を発展させてきた感がある。

松江の金融界においても、第七十九国立銀行が営業を停止し、市内には三井銀行の支店が残るのみとなったという。そのため、市内の商工業者は金融面での不便や不安も大きく、そうした不便・不安を解消するために松江銀行が設立されることになったのである。

松江銀行は他の地方銀行と同様に、自治体の公金や関連機関、病院などの出納を取り扱うことで信用力を高めていった。さらに、産業の近代化が進むと資金供給機関としての役割も大きくなった。境港を中心とする海運金融も盛んになった。銀行は資金供給力を強化するために大規模化し、松江銀行は1916年に八雲銀行、1918 年に安濃銀行と粕淵銀行、1919 年に平田銀行を合併し、山陰随一の大銀行となった。