日本各地の「地銀」のルーツをたどってみよう。そのM&A=合従連衡の歴史をひも解けば、銀行や金融経済の成り立ちはもちろん、日本の伝統産業、商業の集積の移り変わり、各都道府県内にある市町村の歴史の“格”の変遷なども見えてくる。“ご当地銀行”の合従連衡史の13回目は、福島県。

古くは三春藩、棚倉藩、白河藩、福島藩、二本松藩、会津藩など力が拮抗した藩があった地域で、現在も浜通り・中通り・会津と個性の異なる地域の集合体の様相を呈している。それだけに、それぞれの地銀・金融機関も独自色が強いようだ。

盛岡市中ノ橋界隈を「盛岡のウォール街」と紹介したが、福島市にも「福島のウォール街」と呼ばれる通りがある。JR福島駅から東に国道13号線を抜け、その先、県庁通りにぶつかるまでの通称・レンガ通りの一帯だ。その通りには1899年、東北地方で最初に開設され、今年で開設120周年を迎える日銀福島支店(開設当時は出張所)がある。そのほか、常陽銀行や秋田銀行といった他県の地銀支店、また証券会社、生命保険会社などの金融機関が軒を連ねている。

そして、福島県のトップ地銀である東邦銀行<8346>も、その一角に本店を構えている。

国策によって生まれた銀行

東邦銀行は1941年、郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行の3行が合併して誕生した。当時、日本の金融界は1927年に始まった金融恐慌の荒波が全国的に押し寄せ、1930年代には福島県内の各銀行、また無尽や銀行類似などの金融機関が相次いで破綻していった。そのなかで国は「1県1行主義」の大号令のもと、生き残った銀行の集約を図っていく。小さい金融機関をまとめて大きな組織にして預金を推奨し、軍費を掻き集めやすくしたい……単純に一言でいってしまえば、国にはそんな思惑があった。

その影響を受けて、郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行の3行に対して、国は1940年に合併を勧めた。そして1941年、3行の対等合併によって生まれたのが東邦銀行である。

東邦銀行のホームページを見ると、この創立の経緯を「国策によって生まれた」と表現している。その受け取り方はさまざまだ。決して明治期の豪商・富豪・名家といった存在が、強力かつ強引に創立を推進したというわけでもなく、明治期の国立銀行の営業期限が切れて、そのまま民間銀行になったというわけでもなく、一方でいわゆる庶民金融からスタートしたわけでもない。

「国策によって生まれた」という表現を“国策銀行”という受け止め方をすると、また違った印象にもなるが、当時の地方金融の新立・存立のあり方を正確かつ正直に示した潔さを感じる人もいるーーそのような表現である。