「小坂鉱山」藤田組・久原房之助が描いた鉱山ユートピア|産業遺産のM&A

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小坂鉱山事務所と、赴任し事務所を眺める夫婦の像

秋田県小坂町にある小坂鉱山。明治の一時期、日本一の産出量を誇った銀山である。秋田県の北部、国道282号線を車で走ると、山間の小盆地に、まるで異空間に迷い込んだかのように、忽然と瀟洒な鉱山施設群が現れる。

脇道に入り、県道2号へと続く通りは、「明治百年通り」と呼ばれている。通りに沿って鉱山事務所や観劇場などの歴史的建造物が建ち並び、多くの観光客を迎えている。

観劇場「康楽館」前の明治百年通り

銀山から銅山、さらに“都市鉱山”に

江戸後期の1861年、小坂鉱山は盛岡南部藩によって採掘が始まり、明治期に入ると戊辰戦争に巻き込まれて没収され、官営となった。だが、1884年に明治政府から藤田組に払い下げられた。藤田組はこの払下げによって創業し、業容を拡大した組織だが、その後、合名会社藤田組、藤田鉱業株式会社、株式会社藤田組、同和鉱業株式会社と社名変更や組織改編を重ね、現在のDOWAホールディングス<5714>につながっている。

藤田組が経営する小坂鉱山は、創業後20年足らずで亜硫酸ガスによる煙害が深刻な状況になり、加えて銀鉱石の枯渇と銀価格の暴落に見舞われ、経営危機に陥った。しかし、銀の鉱床のさらに下にある黒鉱(亜鉛や鉛、銅などの鉱石)の鉱床に活路を見いだし、その精錬技術を磨くことで銀山から銅山へと生まれ変わった。

藤田組は創業から100年ほど、紆余曲折を経つつも銅山・鉱山経営を続けてきた。だが、同社の鉱山事業は1985年のプラザ合意以後、急速に進んだ円高によって非鉄金属の価格が暴落し、再び窮地に立たされた。

この時期に藤田組は鉱山事業から撤退する。そして、現在のDOWAホールディングスのビジネスモデルである金属の生産から高付加価値材料の製造、さらに廃棄物・リサイクルに至る、独自の「循環型ビジネスモデル」を展開していくようになった。

小坂鉱山は、DOWAホールディングス傘下のDOWAメタルマインの事業子会社である小坂製錬として、電子部品を回収してレアメタルを“採掘”する「都市鉱山」として三たび生まれ変わったことになる。

小坂鉱山の窮地を救った久原房之助

この鉱山に理想郷、ユートピアを思い描いた一人の男がいた。藤田組の創業者、藤田傳三郎に見いだされた久原房之助である。

久原は日立製作所<6501>やENEOS(旧J X)ホールディングス<5020>などの礎を築いた人物として知られている。ビジネスマンとしての実質的なスタートが小坂鉱山の再生だった。

久原は大学を出てノリタケや日本ガイシにつながる貿易商社、森村組に入社するが、1年半ほどで藤田組の経営に加わることになった。

藤田組は1890 年頃までには全国に10の鉱山を所有し、その主力事業は鉱山業となっていた。だが、1890年代半ば、久原が藤田組に呼ばれる頃の小坂鉱山は、銀価の低迷により、再建するか閉鎖するかの選択を迫られる状況だった。そこで再建のため呼ばれたのが久原だった。

なぜ、藤田が久原を呼んだのか。久原にとって藤田傳三郎は叔父だったこともあるが、積極果敢かつ人望の厚さ、ビジネス感覚の鋭さを持つ久原が小坂鉱山の現場で若い社員と激論を交わす姿を目の当たりにし、藤田は小坂鉱山の将来を若い久原に託したということだろう。

銀価が低迷する一方で、銅の軍需が増えていた時期でもある。久原は小坂鉱山を銅鉱山として再生させた。もちろん、精錬法の技術革新も進め、コストの大幅な引下げも実現した。

藤田は小坂鉱山を再生できれば、500万円を成功報酬として支払うと久原に約束していたとされる。久原はその500万円強を握りしめて独立し、みずから鉱山業に乗りだしていった。

“再生請負鉱山王”が気遣っていたこと

1900 年代前半、小坂鉱山は足尾銅山(栃木県・古川財閥)と別子銅山(愛媛県・住友財閥)に並ぶ銅山となった。

日立(茨城県)の赤沢鉱山を苦境から日立鉱山として再生させたのも、この時期だ。久原は赤沢鉱山を個人で買収した。鉱山業に乗り出した当初、日立鉱山は久原の個人経営だった。

だが、1912(大正元)年10月、大阪で資本金1,000万円の久原鉱業として株式会社化した。その後、事実上の三井財閥総帥となった池田成彬を説得し、三井銀行から多額の融資を受けるようにもなった。久原は“剛腕・剛健な人たらし”であった。

1910年代、栃木県では足尾銅山の鉱毒問題で揉めに揉めていた。そこで久原は、日立鉱山をはじめ、久原鉱業傘下の鉱山従業員やその家族の健康を人一倍気遣っていたという。その気遣いが、日立鉱山や佐賀関鉱山(大分県)に建てた巨大煙突につながる。

この鉱山従業員の健康・福利厚生への久原の思いは、小坂鉱山の福利厚生策にも現れていた。「鉱山を理想郷に!」という久原の見果てぬ夢は、着実に現実のものとなっていった。

鉱山事務所、康楽館……、秋田の道は小坂に通ず!?

久原が藤田組で奮闘したのは1890年代から1900年代の初め頃までだ。その間に、小坂鉱山では郵便局が設置され、消防隊が発足し、鉱山内に水道が引かれ、電灯が点った。病院もでき、小坂小学校に「小坂文庫」を創設している。1900 年代の小坂鉱山の発展期には、小坂鉱山の福利厚生施設、小学校、村役場施設、電気・水道、病院、娯楽施設、すべてのインフラが整えられていく。だが、藤田家兄弟間の家督の問題もあり、嫌気が差した久原は1905(明治38)年に藤田組を退職した。

小坂鉱山では、1903 年に社長に復帰した藤田傳三郎が久原の意を継ぎ、従業員の待遇や衛生面の充実に取り組んだ。当時、県下一の総合病院といわれた小坂鉱山病院の建設や小坂鉄道などが敷設されたのもその頃だ。

小坂鉱山に「康楽館」という施設がある。久原が藤田組を去った後、1910 年に建設した劇場で、歌舞伎や芝居が公演された。鉱山従業員とその家族などが利用し、特に評判がよかったのは小坂鉱山主催の慰安会だったという。年に1 度、1 週間ほど無料で鉱山の全従業員とその家族が歌舞伎を楽しむことができた。

久原が藤田組を去った後、1910年に建てられた康楽館

なお、康楽館はプラザ合意のあった1985年に藤田組が小坂町へ寄贈している。

久原も1917 年に日立鉱山に「共楽館」を建設している。共楽館は日立鉱山従業員とその家族、地域住民の厚生施設であった。共楽館は現在の「日立武道館」で、1967年に日本鉱業から日立市に寄贈されている。

明治後期には2万人を超える人口で、県下第二の都市にまで発展した小坂。現在の小坂町は人口4,500人ほどだが、小坂に行けばなんでも揃った! そんな時代があった。

小坂まちづくり(株)の管理運営に

小坂鉄道は「小坂鉄道レールパーク」として整備されている

現在、小坂鉱山の施設群は小坂町から委託された小坂まちづくり(株)という組織が運営している。管理運営事業として、ホテル小坂ゴールドパレス(レストラン青銅館)、小坂町康楽館(国重要文化財)、小坂鉱山事務所(国重要文化財)、小坂鉄道レールパーク(国有形文化財)、天使館(国有形文化財)を運営する。天使館とは旧聖園マリア園で、小坂鉱山従業員子女のための幼児教育施設だ。

業務受託事業としては、小坂七滝ワイナリー「山ぶどう系品種」ワイン醸造のほか、明治百年堂(観光土産品販売等)などを受託する。

久原は政治的活動から見れば、「政界の黒幕・フィクサー」とも呼ばれた人物だが、ここでは別の一面を振り返ってみた。

文・菱田秀則(ライター)

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