「黒壁スクエア」ガラス文化に魅せられて|産業遺産のM&A

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黒壁スクエアのメイン施設「黒壁ガラス館」(滋賀県長浜市)

滋賀県長浜市にある「黒壁スクエア」は、1988年4月に創立した株式会社黒壁(本社・長浜市元浜町)という民間主導の第3セクターが運営している。そのメイン拠点「黒壁ガラス館」はもともと、大阪に本店を置く国立第百三十銀行の長浜支店だった。

長浜は豊臣秀吉が初めて城持ち大名となった地。その経済政策「楽市楽座」は長浜を日本有数の消費地に育てた。だが、それは400余年も前の昔の話だ。その後、地場産業の高級絹織物「浜縮緬」も隆盛を極めたが、和装の衰退により地元経済は右肩下がりになっていく。

昭和期以降、大手流通業が進出したこともあったが、それは長浜の郊外のことで、長浜の中心商店街は時代の流れの中で急激に衰退していった。今日、全国に見られる駅前の“シャッター商店街”。長浜の駅前も例外ではなく、ほとんど人が通らない商店街と化した。

運営主体が次々と変わった「黒壁銀行」

長浜の中心商店街の一角にある黒壁ガラス館の建物、国立第百三十銀行長浜支店は、その外観から「黒壁銀行」と呼ばれた。だが、明治から昭和にかけての銀行の成長・統廃合の波に揉まれ、黒壁銀行の建物は様々な企業・団体の運営に変わっていった。

まず、1906年には明治銀行長浜支店となった。明治銀行は1903年、千葉県に設立された銀行で、のちの千葉銀行につながる大手地銀である。ところが明治銀行長浜支店が撤退することになり、黒壁の建物は紡績会社の配送所として使われるようになった。

さらに、煙草専門公社(専売公社)の営業所としても使われた。1954年には、専売公社営業所の撤退により、長浜カトリック教会に引き継がれた。「黒壁教会」となると、教会としてもふさわしいものとはいえない。長浜カトリック教会時代に、建物は白く塗り替えられたようだ。

次々と経営・運営の主体が変わってきた黒壁の建物。1987年、大きな転機が訪れる。長浜カトリック教会の移転により、売却され、取り壊されることになったのである。跡地にはマンションが建築される予定であった。

時代は昭和のバブル景気を迎える頃だ。日本経済は活況を呈していくなかで、全国の駅前商店街は廃れていった。長浜の商店街もシャッター街から“空洞商店街”なっていった。

そのとき、マンション建設計画を聞きつけた当時の長浜市役所職員が街の施設として維持できる方法を模索し、地元財界人に相談を持ちかけたという。そして誕生したのが「黒壁」という民間主導の第3セクターの株式会社である。

黒壁が果たした2つの役割

黒壁という会社には大別して2つの役割があった。1つはガラス産業の育成だ。なぜ、ガラス産業か。中小企業庁の商店街再生に関する資料(がんばる商店街77選)によると、そのきっかけはとても素朴なものであったようだ。黒壁の初代社長が、

「ガラスをつくっているところには、たくさんの人が集まる。ガラスをやろう」

と提案したのがきっかけだったという。

会社としての黒壁は、地元青年会議所のOBらを中心メンバーに設立した。初代社長は創業のメンバーの一人、長谷ビルという地元不動産会社会長の長谷定雄氏だった。

黒壁の創業メンバーは地元の若い企業家であり、古くからの事業の後継者でもあった。不動産、ホテル、製造業、建設業、倉庫業など、それぞれの家業を営むなかでの第3セクターの創業。当初の資本金は、土地や建物の買戻しと修復資金などのため1億3000万円を集めた。資本金のうち、4000万円は長浜市が拠出し、民間の創立メンバーは8社で9000万円を拠出したという。

もう1つの役割は伝統文化の継承である。長浜には安土桃山時代から、豪華絢爛な子供歌舞伎を曳山という山車の上で演じる「長浜曳山祭り」という祭り・伝統文化が息づいていた。その伝統文化の灯を絶やしてはいけないと、創業メンバーは立ち上がり、出資したという。

民間主導の第3セクターならでは、の多角化戦略

黒壁の業務内容は、国内ガラス工芸品の展示販売や海外アートガラス輸入をはじめ、展示販売ガラス工房の運営、オリジナルガラスの制作・販売、また、地域に根差したまちづくり文化に関する情報や資料の収集・提供である。それが創業10年、20年ほどのうちに積極的に多角化していった。

黒壁ガラス館に隣接する「黒壁オルゴール館」

1989年7月、黒壁1號館である黒壁ガラス館に続き、オリジナル工房の2号館、レストランの3号館がオープンし、「黒壁スクエア」が誕生した。口コミも功を奏し、観光客は徐々に増えていった。その客足の伸びに呼応するかのように黒壁を冠した店舗は増えていった。

この30年余年の黒壁スクエアの歴史の中では、創業メンバーが何回もヨーロッパに買い付けに赴き、作家を招待し、展示会やコンクールを開いた。数々の美術賞や街並み保存に関する表彰を受けている。

もちろん、新規出店する店もあれば閉店・統廃合する店もあった。1996年には新長浜企画という会社を設立し、小樽オルゴール堂を競売で獲得し営業継続し、翌1997年に小樽オルゴール堂を黒壁に営業譲渡している。また、黒壁ガラス館in Esashiを1998年に岩手県江刺市に直営店として出店したが、その前年に出資支援した黒船(岩手県江刺市)に2002年に譲渡している。

そうしたM&Aを含む事業の再生ができたことが、民間主導で出資を募る第3セクターの強みでもあり、黒壁スクエアを中心とした街の活気にもつながった。

黒壁ガラス館は北国街道沿いにある。そうした歴史の趣も黒壁には味方したようだ。ガラス館の前の通りをガラス街道と名づけ、古民家を借り受けて直営店にするなど街並みづくりを意識した事業展開を図った。情報発信面では観光情報センターに黒壁の名を冠したほか、1991年には「黒壁ガラス大学」という教育・技術伝承の場も設けている。

自治体もまちの活性化に向けて本格的に動いた。1992年には、黒壁の資本金を4億4000万円に増資。長浜市が1億円を追加出資し、民間の賛同者は急増し、地元民間企業を中心に35社で2億1000万円を集めた。

また、翌2003年には、オリジナルブランド『リフレクションクロカベ』を発表するまでに成長した。

決して“楽”ではないが、活気を呼び戻しつつある

黒壁グループの店舗は図のようになっている。

黒壁スクエアマップ(黒壁グループ協議会事務局作成パンフレットから)

現在は20を超える店舗が集積し、新型コロナの影響で一時は落ち込んだものの年間150万〜200万人が訪れるようになった。シャッター通りと化していた中心商店街も活気を取り戻しつつある。

直営店全体の年商は3億〜6億円前後と波があり、決して大規模なものとはいえない。資金繰りも毎期、利益剰余金はマイナス4億〜5億円と厳しい状況は続く。決して楽ではない状況だが、豊臣秀吉の経済政策、楽市楽座の魂が長浜の街に活気を呼び戻しつつあるのは確かだ。

文:菱田秀則(ライター)

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