【北洋銀行】拓銀の力を追い風に|ご当地銀行の合従連衡史

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J R根室本線「帯広」駅に隣接する北洋銀行帯広中央支店

北海道内の第2地銀である北洋銀行<8524>の行員数(2654人)、支店数(171店舗)、資本金(1211億円)、資金量(10兆237億円)、貸出金(7兆4061億円)、総資産(12兆5613億円)等の事業規模は、道内の有力地銀、北海道銀行に肩を並べ、さらに凌駕するまでに成長してきた(数字はいずれも2021年)。第2地銀業界で最大手行といってもよい。

その北洋銀行は創業からこれまで、3つのステージを着実に昇ってきた。第1ステージは無尽組織から相互銀行への転換、第2ステージは相互銀行から普通銀行への転換、第3ステージは北海道拓殖銀行(以下、拓銀)の営業の譲受けである。

その過程にあったM&A史を振り返っていく。

道内無尽が一本化され、北洋無尽が誕生

北洋銀行は大正期の1917年8月、北海道無尽として創立した。当時本店は道庁所在地の札幌ではなく、商業・金融の中心地ともいえる小樽に置いていた。当時の小樽は日銀小樽支店(現金融資料館)をはじめ銀行の支店も多く所在し、日本海側及び北海道の金融の中心地。「北のウォール街」などと呼ばれていた。そのことも背景にあったのだろう。北海道無尽は創立約半年後の翌1918年1月には、商号を早々に小樽無尽に変更している。

その後、戦前・戦中の政府による金融統合の方針を受けて、1931年に滝川無尽、1940年に北海産業無尽を合併し、1944年に北洋無尽となった。なお同年、北洋無尽は北日本無尽、拓殖無尽、東和無尽、日之出無尽という道内4つの無尽組織を合併している。本店を小樽から札幌に移したのは北洋無尽となった翌年、1945年のことだった。

相互銀行から普通銀行に、そして拓銀破綻の受け皿に

1951年に相互銀行法が制定され、無尽組織は続々と相互銀行になっていく。北洋無尽が北洋相互銀行となったのも1951年10月のことだった。北洋相互銀行としては、札幌・小樽をはじめ道内全域に着実に営業網を拡大していった。

そして平成期に入った1989年2月、相互銀行の普通銀行への転換により、北洋相互銀行は北洋銀行に商号変更した。

その約8年後の1997年11月、拓銀が経営破綻した。当時の大蔵省はバブル崩壊後も「大手銀行は1行たりともつぶさない」と強気の姿勢を示していたが、それを反故にする対応に出たのである。

拓銀はもともと特殊銀行(第2次大戦前、長期にわたる設備投資や貿易、併合地政策などの必要から、特別に法律をつくって設立された政府系金融機関)として1900年に創立したが、戦後は普通銀行に転換し、1950年代には全国地方銀行協会を離れ、いわゆる都市銀行の仲間入りを果たした。

だが、不動産開発会社のカブトデコムなどに対するバブル期前後の大口・乱脈融資が不良債権化して破綻した。どの金融機関が救済するか。北海道銀行が受け皿になるなどいくつかの案があったが、最終的には北洋銀行が拓銀から道内の営業を譲渡されることとなった。その奇策が追い風になり、北洋銀行は北海道銀行の事業規模を超え、道内最大、第2地銀最大手の銀行となった。

当時は「第2地銀が都市銀行を救済する!」という前代未聞の事態に、金融業界のみならず北海道産業界は大きく揺れ動いた。北洋銀行から見れば、まさに拓銀の顧客を一気に取り込む“漁夫の利、棚ボタ”であっただろう。

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