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「寛懐」和を保つだけでは済まない時|M&Aに効く言志四録

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西郷隆盛も愛読したといわれる『言志四録』。西郷はそこに何を読み解いたのか?(ac-yuki・iStock)

敵の敵は味方

 江戸時代から明治維新へ。その歴史的な大転換のときに、日本国内ではさまざまな動きがありました。そのきっかけは、江戸幕府の外国政策に対する迷いによって生じました。

 黒船、つまりペリー来航によって決断を迫られた江戸幕府。国内の政治では機能してきた幕藩体制は、外交には不向きでした。そこで幕府は諸国の大名に今後の外交政策について意見を募ったのです。

 意見を表明することは、立場を表明すること。各藩によって事情はまるで違っていたので、当然、意見は対立していきます。その中でも尊王攘夷派(朝廷を国の代表として敵国を排除する)が台頭し、幕府の進めていた不平等条約による五つの港の開港に反対をはじめます。

薩長同盟から明治維新の舞台となった京都・伏見の船宿、寺田屋(kimtoru/写真ac)

 西郷隆盛のいた薩摩藩は、攘夷派ではあったものの、あくまで江戸幕府を維持しながら新しい時代へ進もうとしていました。長州藩は急進派の攘夷派。幕府が朝廷をないがしろにしたことを重視し倒幕へ向かう動きを見せたことで、幕府側は長州藩を朝廷のある京都から排除してしまいます。

 長州藩は、そもそも毛利家として徳川幕府によって中国地方の広大な領地を奪われた過去があり、なおかつ徳川側の近隣の藩より小さい存在であることを強要されていました。国力を必死で高めた長州藩は、一説によれば江戸時代末期には100万石の実力があったらしいのですが、いわば簿価では40万石未満とされてきたのです。そのため、下関での密貿易で富を増やしながら最新の兵器を備えました。いつでも討って出る準備をしていたのです。

 薩摩藩も琉球での密貿易で大きな利益を上げ、同様に最新兵器を揃えていました。

 このときに、長州と薩摩は国内で最強の存在だったのかもしれません。米国も英国も、余った兵器をどんどん供給するつもりでした。それによって、日本の政治を変えようと圧力をかけていたとも言えます。

 薩長同盟は、この最強の二つの藩が組むことです。長州は京都から追い出され、味方がいない状態へ追い込まれていました。薩摩は幕府側でしたので、長州征討に参加するなど、長州藩からすれば敵。ですが、薩摩藩も幕府の動きの鈍さに困っていました。幕府を支配していたのは頑固な一会桑政権であり、その武力は会津藩や桑名藩が負っていました。

 長崎の兵器商人グラバーと組んで亀山社中(日本最初の株式会社などとも言われています)を設立していた坂本龍馬たちは、長州に武器を供給する一方、長州を苦境から助け、日本の改革を進めるために、薩摩と組む、いわば最強軍団づくりを働きかけたわけです。これが薩長同盟の意義でした。

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