マーケットスタンダードとは

M&A契約実務上、ある問題点への対処法において一般に多く採用されている取り決めや、一定の傾向の存在のことを、「マーケットスタンダード」とか、「相場」などと呼ぶことがある(厳密には両者は分けて概念整理するべき場面もありうるところだが、本稿では便宜上まとめて「マーケットスタンダード」と呼ぶことにする)。

マーケットスタンダードは、M&A契約に限らず様々な取引類型で存在する。M&A契約においてマーケットスタンダードが存在する典型例としては、当事者が表明保証条項に違反した場合において、以下のような補償条件の設定をどの程度で設定することが実務上多いか、という問題があげられる。

・補償金額の上限の設定(取引価額の何パーセントとするか)
・補償請求ができる最低の金額(補償金額の下限、フロアー、バスケットなどと呼ばれる)の設定(1件あたりと累計額それぞれの金額、また、下限とした金額を請求額から控除するかなど)
・補償請求可能な期限の設定

他にもマーケットスタンダードは、実務上どこまで確立しているかについて程度の差こそあれ、あらゆる条項で存在し、売主の第1案として通常取るべき対応、買主の第1案として通常取るべき対応というように、当事者の立場によっても異なるし、当事者双方の利害を調和させるための譲歩案についてもマーケットスタンダードといわれる措置が存在する。

マーケットスタンダードの実態

欧米では非公開会社の取引も公表されるため、それをもとに契約上のマーケットスタンダードに関する統計がとられることがある。これに対して日本では、合意内容の開示が一定範囲で求められる公開買付けや組織再編による経営統合などの上場会社の取引を除いて、契約条件の先例が公表されないため、筆者の知る限り統計は存在しない。そのため、マーケットスタンダードはM&Aに関与する個々の法律実務家の頭の中にあると言って良く、その意味では肌感覚に過ぎず、客観的、定量的な根拠があるわけでは必ずしもない。よって、論者によってマーケットスタンダードの内容について認識が異なることも珍しくない。

また、契約交渉において、交渉を行う一方当事者の弁護士が「この規定については一般的実務では通常このような内容にするから本件でも同様にするべきである」と主張し、これに対して相手方当事者の弁護士が「いや、そのような一般的な実務は認識していない。」とか、「たしかにそのような実務は存在すると認識しているが、本件の事情には妥当しないから受け入れられない」などと返すといったように、マーケットスタンダードは契約交渉上のロジックとして活用されることがある。

実務への影響力

このような不確かなものであるにもかかわらず、マーケットスタンダードの実務における影響力は極めて大きい。契約のドラフトを担う法律実務家は、その立場において自身がマーケットスタンダードであると信じる条項に事実上拘束され、案件特殊的な事情のない限り、そこからの逸脱には慎重である。また、契約当事者となる依頼者企業の関心も極めて高い。

ある契約上の論点について、依頼者から弁護士に対して(単に「本件ではどうすればよいか」ではなく)「通常はどのようにすることが一般的か」という質問は頻繁になされるし、これに依拠した意思決定を望むことが珍しくない。弁護士がこの質問に対して「ケースバイケースではないか」と回答すると、依頼者の表情からはそれはあまり期待した答えではないように感じることがあるくらいである。

マーケットスタンダードがここまで尊重されているのは、市場原理と同様で、実務上多く採用されている取り決めなのであれば、M&Aの広い意味での市場がその条件が合理的であると判断しているからであろう。そのため、法律実務家としてはできる限り多くの取引を経験して、マーケットスタンダードと呼ばれるものを把握するよう努めなければならないし、また、それを採用することの合理性について依頼者をはじめとする関係者に説明できるようにしておかなければならない。

最後は自分の頭で考えること

ただし、当然のことながら、「マーケットスタンダード」なるものを知ってさえいれば、M&Aに関与する法律実務家としてそれで足りるわけではない。

およそM&A取引は、開始当初は一見ストレートな案件だと思われても、イレギュラーバウンドとも言えるような当該案件固有の事情はほぼ常に必ず存在し、その場合にはマーケットスタンダードそのままの対応では十分ではない。

マーケットスタンダードを踏まえた上で、当該案件固有の法的な問題点を発見し、それを分析し、そして契約に落とし込むという、「想像力」と「創造力」が求められる。そしてそれこそが、法律実務家として期待される真の役割と言えるし、また、最大の力の見せどころと言えるだろう。

文:柴田 堅太郎(弁護士)