明治後期、石油業界も近代化がより進み、会社組織での採掘が主流になっていく。貫一は1906年には金津村の村長に就任。しかし、1909年に原油の溜池が決壊し、水田に油が流失した。その責任をとって村長を辞職した。
この金津村村長時代の1906年、まず中央石油という会社を創業し、新津の滝谷という地に製油所を設立した。そして村長を辞任した1909年には中野合資会社を組織。この中野合資会社が1914年に中野興業という株式会社に組織変更するとともに、名称変更した。当初は資本金500万円であったが、石油のほかにも、林業、土地開発などの事業を手がけ、2年後には2500万円まで増資して社業を発展、日本石油、宝田石油に次ぐ大手石油会社に成長した。
日本石油と宝田石油、日本の2大石油会社が合併したのは、前述のとおり1921年のこと。その前年、貫一が創業した中央石油も日本石油に買収されていた。
その後、戦時統制が強化され、1942年に石油会社は国策会社である帝国石油に一本化されることとなった。中野興業も同年、帝国石油に合併されている。
貫一は昭和初期の1928年、83歳で他界した。家督は子の忠太郎が継いだ。そして戦後高度成長期の1968年、かつて中野鉱業が開発した金津油田の鉱業権を譲り受け、丸泉石油興産を設立、石油の採掘事業を続けていった。丸泉の「泉」は貫一が曾祖父の石油採掘権の屋号(泉舎)にちなむもの。中野家の経営する企業である。
だが、1996年の年度末、丸泉石油興産は石油採集事業を停止するに至る。新津において最後まで取り組んできた石油採掘の灯は、このとき潰えた。
貫一は1918年に中野財団という財団組織を設立している。奨学金や学校建築をはじめ地元公共施設のための資金を寄付した。日本石油、宝田石油が大都市に進出し、本社を移転するのとは対照的に、貫一と中野家、また貫一が興した会社は、郷里新潟・新津にこだわり続けた。
現在、金津にある貫一の生家は中野記念館(石油王の館)として庭園とともに整備保存され、周辺は「石油の里」として里山ビジターセンター・石油の世界館などの施設があるほか、新津油田金津鉱場跡として油井のほか水切り計量タンクや加熱炉、丸泉石油興産事務所跡などが保存されている。
文:菱田秀則(ライター)
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