「片倉シルク記念館」

埼玉県北部の中核都市・熊谷。JR熊谷駅から北西の徒歩15分足らず、国道17号線沿いに、「イオン熊谷」という巨大ショッピングセンターがある。その敷地の一角に、外見は白さがまぶしい2棟の端正な建物がある。片倉シルク記念館。繊維・医薬品などのメーカーの老舗、旧片倉財閥の流れを組む片倉工業株式会社<3001>が保有していた製糸工場の1つ、熊谷工場の繭倉庫を活かした企業博物館である。

三井、片倉と旧財閥を渡り歩いた製糸場

実は片倉工業は2014年に世界文化遺産となった富岡製糸場の最後のオーナーだった。その時代は1939年から2005年までと、60余年にわたる。

片倉工業は国営富岡製糸場が操業を始めた翌年の1873年、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)で製糸業を始めた。当時は座繰製糸での作業。座繰製糸とは、座繰器による製糸方法のことで、座繰器とは、歯車仕掛けの木製の簡単な繰糸の器具のことである。

明治初期はこの座繰製糸がそれまで全国の養蚕農家で行われていた手繰りによる製糸にとって代わる先駆的な手法であった。座繰製糸が主流になりつつある時期、片倉工業初代社長の片倉兼太郎は、国営富岡製糸場の発展ぶりに目を見張ったはずだ。現社長の佐藤公哉氏も同社のホームページで、その思いについて「初代社長の片倉兼太郎は富岡製糸場の近代的な設備、西欧の器械製糸技術や新しい工場制度などへの『驚き』と『あこがれ』があったのではないか」と語っている。

座繰製糸による製糸とその改良・発展は、いわば、それまで上流階級を対象としていたシルクをより一般的な繊維として、日本、さらに世界に広げていくことにつながった。

ここで、その発展に大きく貢献した富岡製糸場の歴史を簡単に振り返っておこう。

富岡製糸場は1872年、当時の日本の主要な輸出品の1つであった生糸の安定的な増産を目的に設立された。日本で最初に設立された官営模範器械製糸工場である。当時、繰糸技術はフランス人技師から指導を受け、建物の煉瓦などは日本の瓦職人が製造したという。

実は当時から大正・昭和期における日本の煉瓦づくりの一大拠点が、熊谷市に近接する深谷市に残っている。日本煉瓦製造株式会社の旧煉瓦製造施設である。その紹介は別の機会に譲ろう。

富岡製糸場は、約10年の国営稼働ののち、1983年に三井家に払い下げられた。その後、1902年に原合名会社(現材、繊維商社として知られる原貿易株式会社の前身)に譲渡され、1939年に片倉工業(当時は片倉製糸紡織)が合併することになる。

当時、日本の輸出産業の花形ともいえる繭糸を支えた富岡製糸場は、国営から民営に変わった。しかも、それは三井や片倉といった旧財閥系の企業。当時の状勢からすれば当然の成行きといえるが、日本の財閥が陰に陽に日本経済全体を牽引し、また下支えしていた姿が垣間見える。