日本各地の「地銀」のルーツをたどってみよう。そのM&A=合従連衡の歴史をひも解けば、銀行や金融経済の成り立ちはもちろん、日本の伝統産業、商業の集積の移り変わり、各都道府県内にある市町村の歴史の“格”の変遷なども見えてくる。“ご当地銀行”の合従連衡史の8回目は、熊本県。

士族銀行の第百三十五国立銀行がそもそものスタート

熊本県の地銀・肥後銀行は業務純益が161億円、経常利益は179億円、当期純利益は123億円、預金は4兆7000億円、貸出金は3兆2500億円(2018年3月期)。県内企業のメーンバンク採用率は過半数を超える、まさに熊本金融界のガリバー的存在である。

その創業は大正14年7月の肥後協立銀行の創立にさかのぼる。その肥後協立銀行は、実は県内の熊本銀行(現在の熊本銀行とは関係がない)が、飽田銀行、植木銀行の2行と合同して誕生した。飽田銀行、植木銀行は明治期に設立された小規模な私立銀行であろう。そこでまず、熊本銀行の歴史をさかのぼってみたい。

明治5年の国立銀行条例の発布以後、熊本では明治12年の国立銀行設立ラッシュの時期に、宇土郡(現宇土市)に第百三十五国立銀行が設立された。肥後銀行は、その第百三十五国立銀行の流れをくむ歴史のある銀行である。

宇土市といえば、2016年4月の熊本地震により市庁舎が半壊したことが記憶に新しい。また、宇土は熊本のなかでも歴史的に士族の勢力が強かった地域である。宇土城はキリシタン大名として知られる小西行長が築城し、のちに熊本城の建設にも貢献した“城郭建築の達人”加藤清正に明け渡すことになった。

熊本といえば細川家のお膝元だが、熊本全土が細川家の勢力下になったのは、その後のことである。その系譜のなかで生まれた第百三十五国立銀行は、士族らが設立した士族銀行という位置づけになる。

第百三十五国立銀行は明治29年に普通銀行の九州商業銀行となった。この九州商業銀行の発起人の1人として、渋沢栄一が名を連ねている。そして、九州商業銀行は大正7年に熊本銀行と改称し、大正14年に飽田・植木両行と合同して肥後協同銀行を設立した。名称を肥後銀行と改称したのは、昭和3年のことだった。