実務では、「真摯でない買収提案」が議論になると思われるが、具体的にどのような買収提案が考えられるか。
この点、産業用ガスの販売を主な事業とするAir Productsによる安全製品サプライヤーであるAirgasへの買収提案のケースが参考になる。(「M&A法制を考える 買収防衛策の適法性を巡る議論(中)」参照)
Air Productsは2009年、Airgasの取締役会に1株当たり60ドル(後に70ドルに引き上げ)で買収提案を行った。
しかし、Airgasの取締役会は「No」と回答した。
なぜなら、誠実義務を負う独立取締役で構成される委員会が、外部の金融専門家の企業価値評価に基づき、何ヶ月にも及ぶ熟考と分析の結果、Air Productsが提示した買収価格よりも、Airgasの取締役会が経営した方が価値があると判断したからである。
すなわち、Airgasの取締役会は、現経営者が創出できる価値よりも低い価格での買収を「真摯でない買収提案」と判断した。
裁判所も2011年、この判断を尊重し、Airgasの「対抗(ポイズン・ピル)」を許容した。
Airgasはその後、どうなったか。
6年後の2015年、産業用ガスとサービスを供給するフランスの多国籍企業であるAir Liquideに1株当たり143ドルで売却した。売却価格はAir Productsの当初の60ドルの提示価格の約2.4倍、最終的に70ドルの提示価格の倍以上となった。
Airgasの取締役会が創出した価値は、Air Productsの買収時からAirgasの1株を継続して保有した場合の利益(Airgas Standalone)と、Air Productsの買収を受け入れ、その資金をS&P500種指数に再投資した場合の価値(Investor Receiving Air Products’Offer Price)を比較するとよく分かる(総株主利益率(TSR)および現在価値ベースで表示)。
<Airgasの取締役会が創出した価値>
出所:Martin Lipton et al., The Long-Term Value of the Poison Pill, Harvard Law School Forum on Corporate Governance and Financial Regulation, December 18, 2015.
Airgasの取締役会がAir Productsの買収提案を「真摯でない買収提案」と判断し、これに「対抗」したため、Airgas株式を継続して保有していた株主は大きな利益を得たといわれている。
公正買収指針原案でもう一つ注目されるのが、以下のように、買収の局面だけでなく、平時のガバナンスを意識した文言が盛り込まれたことである。
コーポレートガバナンスは株主と経営者との間のエージェンシー問題の解決策といえるが、日本では長らく、内部統制や社外取締役などの「内部システム」の役割が大きかったが、近年は、「外部システム」の重要性が増加している。
その外部システムには、株主による「ボイス」や経営者と異なる買収者による「同意なき買収や競合的買収」の役割が大きい。
欧米では同意なき買収や競合的買収を阻害しないことがコーポレートガバナンスの強化につながると考えられており、米国のある研究者は、「企業内部での経営陣への監督が弱い場合には、M&Aは成果の乏しい経営者を罰するための“最高裁判所”としての役割を果たす」と表現する。(「コーポレートガバナンスを考える 東芝の非公開化と上場市場の機能」参照)
もっとも、その最大の対抗措置は、経営者が平時から投資家の期待するリターン(資本コスト)を上回るリターン(資本利益率)を上げることができる投資を行い、企業価値を増大させ、時価総額とのギャップがあれば、投資家への開示や対話によって反映させる努力を行い、さらに投資を継続し、企業価値を向上させる努力をすることであることは論を俟たない。
東証の「コーポレートガバナンス・コード」や「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」だけでなく、公正買収指針原案でも、これを意識した文言が盛り込まれたことは大きな意義がある。
とりわけ、企業価値と時価総額のギャップは、政策保有株式の保有などの株式の流動性に起因するケースが多く、これがエージェンシー問題を深刻化する可能性が高いため、「株式の流動性を高める取り組み」という文言が明記されたことも大きい。(「コーポレートガバナンスを考える 政策保有株式の売却とM&A」参照)
2023年4月26日、複数の買収提案に「対抗」し、EBOしたユニゾホールディングスが民事再生法の適用を申請し、保全監督命令を受けた。
ユニゾホールディングスとAirgas。いずれも買収提案に「対抗」したが、その帰趨を左右したものは何だったのか。
株式会社は、そのライフサイクルの中でたとえ成熟したとしても、魅力的な会社と評価されれば、買い手となる会社の投資(M&A)の対象となり、買い手となる会社のグループ会社として価値向上を目指していき、株主は投資資金を回収し、新たな投資先を模索する。これが資本市場の機能といえる。
経済産業省の飯田経済産業政策局長は研究会の最後で次のようにコメントしている。
「我々は、望ましい買収が活性化して、業界再編の進展や資本市場の健全な新陳代謝につなげていくことを目的としてこの政策を進めている」
日本も株式会社の大部分は成熟期を迎えている。非上場会社は「後継者問題」がクローズアップされているが、それは上場会社も同様である。世界の見渡すと、同意なき買収は2022年、全体の約4,130億ドルを占め、世界のM&Aの10%以上を占める。公正買収指針は、産業競争力向上に必要な望ましいM&Aの活性化と、資本市場の機能強化に影響を及ぼすか。
最終的な指針の策定は、パブリックコメントなどを経た上になるため、少なくとも株主総会シーズンが終わった後の時期になるというが、今後はM&A関係者の真価が問われるように思われる。
文:吉村一男
フィデューシャリーアドバイザーズ 代表
上場事業会社、大手証券会社の投資銀行部門を経て、現職。平時の株主価値向上のコンサルティング業務、株主総会におけるアドバイザリー業務、M&Aにおけるアドバイザリー業務、投資業務などに従事。早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター(WBF)の招聘研究員に嘱任し、企業法とファイナンスに関する研究に従事。著書は、「構造的な利益相反の問題を伴うM&Aとバリュエーション―理論と裁判から考える現預金と不動産の評価―〔上〕〔下〕」旬刊商事法務2308号・2309号(共著、2022年)、「米国の裁判から示唆されるわが国のM&Aプラクティス」MARR330号(2022年)、『バリエーションの理論と実務』(共著、日本経済新聞出版、2021年・第16回M&Aフォーラム正賞受賞作品)、『論究会社法‐会社判例の理論と実務』(共著、有斐閣、2020年)など多数。
フィデューシャリーアドバイザーズ HP(https://fiduciary-adv.com/)