M&A法制を考える 公正な買収の在り方に関する指針原案と望ましいM&Aの活性化

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「望ましい買収」が生じやすくする指針

経済産業省は2023年3月28日、公正な買収の在り方に関する指針(公正買収指針)の原案(公正買収指針原案)を公表した(原案の最終版は2023年4月28日付)。

経済産業省はこれまで、買収に関する公正なルール形成を促すことで企業価値を高めるという考え方から、買収防衛策やMBO(経営陣による買収)等の在り方や、それらのベストプラクティスを整理する指針(例えば、2019年の「公正なM&Aの在り方に関する指針(公正M&A指針)」)及び報告書(例えば、2005年の「企業価値報告書」、2006年の「企業価値報告書2006」、2008年の「近時の諸環境の変化を踏まえた買収防衛策の在り方」)を策定してきた。

しかし近年では、買収提案についての評価が買収者と対象会社で分かれるケース(取締役会の同意なき買収、いわゆる英語の「hostile takeover」や競合的な買収の場面等)が増加している。

そこで、経済産業省は2022年11月18日、「公正な買収の在り方に関する研究会」(座長:神田秀樹学習院大学大学院法務研究科教授)を設置し、これらのケースを念頭に、買収提案に対する当事者の行動の在り方(企業価値の向上に繋げるという観点から、対象会社の取締役会や買収者が持つべき視点、取るべき行動の整理)や、買収防衛策の在り方(近年の判例を踏まえた論点の整理。様々な見解のある論点についての考え方の整理)等について検討を2023年4月28日まで8回にわたり行ってきた。

2009年の公正M&A指針は、MBOや親会社による子会社の完全子会社化などの「構造的な利益相反問題のあるM&Aに関する指針」といえるが、今回の指針は、「同意なきM&Aやその対抗措置に関する指針」といえる。

このような指針を策定した背景には、日本は欧米と異なり、同意なき買収や競合的な買収が少なく、産業競争力向上に必要なM&Aが滞っているという問題意識がある。

<TOBの基本的性質別の国際比較(2012~2021年の累計)>

出所:経済産業省「公正な買収の在り方に関する研究会第1回事務局説明資料」(2022年11月18日)12頁

事務局を担当する経済産業省の安藤元太産業組織課長は、ロイターに取材に「リソース配分の最適化が起こりにくくなっている」と回答している。

そこで、公正買収指針原案の「はじめに」では、「公正なM&A市場における市場機能の健全な発揮により、経済社会にとって望ましい買収が生じやすくすることを目指し」と明記された(1.1参照)。

クリアになった「企業価値」

公正買収指針原案で注目されるのが、「企業価値」の定義がクリアになったことである。

2005年の「企業価値報告書」では、「企業価値」とは、「会社が生み出す将来の収益の合計のことであり、株主に帰属する株主価値とステークホルダーなどに帰属する価値に分配され」、「良い買収提案」は、以下のように、経営革新をもたらし、株主だけでなく、従業員や取引先等のステークホルダーにも資源分配効果がある買収であることが明記されていた(第2章第2節3参照)。

<良い買収提案>

出所:経済産業省「企業価値報告書」37頁

また、経済産業省が2005年、法務省と共同で策定、公表した「企業価値・株主共同の利益の確保又は向上のための買収防衛策に関する指針」では、「買収防衛策の導入、発動及び廃止は、企業価値、ひいては、株主全体の利益(株主共同の利益)を確保し、又は向上させる目的をもって行うべきである」と、2019年の「公正M&A指針」では、「望ましいM&Aか否かは、企業価値を向上させるか否かを基準に判断されるべきである」と、それぞれ明記されているが、ここでも「企業価値報告書」の「企業価値」が踏襲されている。

そして、公正M&A指針では、「企業価値」への貢献度が「一般株主」の利益と一致しない場合には、客観的に高い現金での買収提案を拒否し、対象会社の取締役が主観的に将来の「企業価値」への貢献度がより高いと考えるより低い現金での買収提案を受け入れるケースがあり得ると解釈できた(2.3第一原則、2.4視点1参照)。

そこで、「企業価値」を理由に「株主以外の利益」を優先して買収に「対抗」するケースが見受けられた。

たとえば、2020年6月に日本の上場企業で初となる EBO(従業員による買収)で上場廃止したユニゾホールディングスのケースがある。

ユニゾホールディングスを巡ってはエイチ・アイ・エスによる敵対的TOB(株式公開買い付け)から複数ファンドの競争買収提案に発展し、ユニゾは最終的にローンスターと組みEBOしたが、競争買収提案で買収提案の評価をする際、公正M&A指針を参照し、企業価値と株主価値の双方を重要視し、対立する場合はその調和を図ることを明記し、将来の経営への「従業員」の参加に関するユニゾホールディングスの条件を満たさない一部のファンドの買収提案に「対抗」したと伝えられている。(「M&A法制を考える M&A市場発展への3つのハードル」参照)

マーケット関係者からは「従業員の保護を理由に経営陣が保身に走っている」との批判の声が上がっていた。

しかし、公正買収指針原案では、以下のように明記された(2.2.2参照)。

企業価値への反映が難しい「非財務情報」は、「投資家が投資先企業の将来キャッシュフローを予想し、理論株価を算出する際には、こうした非財務情報を将来キャッシュフローの算定に取り込むことや、キャッシュフローの現在価値を算出する際の割引率に反映することで、非財務情報の要素を企業価値の評価に反映する取組みが行われている」と注記された(注6参照)。

そして、「望ましい買収か否かは、企業価値ひいては株主共同の利益を確保し、又は向上させるかを基準に判断されるべきである」と明記された(第1原則、2.1参照)。

投資家、とりわけ長期運用投資家は、経営者が投資家の期待するリターン(資本コスト)を上回るリターン(資本利益率)を上げることができる投資を継続的に行い、企業価値を増大させれば、短期的に企業価値が時価総額と乖離していたとしても、長期的には時価総額に収斂し、株主共同の利益が確保されると考えている。(「コーポレートガバナンスを考える 長期運用投資家とM&Aによる事業ポートフォリオの見直し」参照)

もし望ましい買収提案があったにもかかわらず、「公正買収指針は企業価値と株主利益を区別している。この買収提案は、従業員や取引先等のステークホルダー利益を確保できないため、企業価値が向上せず、望ましい買収ではない」との理由で、この対抗を認めれば、経営者は企業価値を向上させるインセンティブがなくなり、投資家も株式に投資するインセンティブがなくなり、「産業競争力向上に必要なM&Aの増加」という政策が「企業価値」の解釈で転倒しかねない。

委員会の委員である東京工業大学工学院の井上光太郎教授がいうように、2005年の「企業価値報告書」の「企業価値」の定義は、「ファイナンス学者の中では人気が無く、分かりにくい印象」があった。M&A実務家の間でも理解不能との声が多かった。

「企業価値」の定義を巡っては、研究会でも議論が紛糾していたが、これを「企業が将来にわたって生み出すキャッシュフローの割引現在価値の総和を表すもの」で「定量的な概念」と指摘した上で、「時価総額」や「株主共同の利益」との関係を明記したことは、大きな進歩であると思われる。

吉村一男 (よしむら・かずお)

フィデューシャリーアドバイザーズ 代表
上場事業会社、大手証券会社の投資銀行部門を経て、現職。平時の株主価値向上のコンサルティング業務、株主総会におけるアドバイザリー業務、M&Aにおけるアドバイザリー業務、投資業務などに従事。早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター(WBF)の招聘研究員に嘱任し、企業法とファイナンスに関する研究に従事。著書は、「構造的な利益相反の問題を伴うM&Aとバリュエーション―理論と裁判から考える現預金と不動産の評価―〔上〕〔下〕」旬刊商事法務2308号・2309号(共著、2022年)、「米国の裁判から示唆されるわが国のM&Aプラクティス」MARR330号(2022年)、『バリエーションの理論と実務』(共著、日本経済新聞出版、2021年・第16回M&Aフォーラム正賞受賞作品)、『論究会社法‐会社判例の理論と実務』(共著、有斐閣、2020年)など多数。

フィデューシャリーアドバイザーズ HP(https://fiduciary-adv.com/


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