ところが、である。グランドホテルは横浜復興のシンボルとして、まったく別の経営陣のもと、大きな狼煙を上げた。中心になったのは当時の横浜市長・有吉忠一と地元政財界の重鎮たち。
有吉は内務官僚として知られ、いくつかの県の知事も歴任し、関東大震災直後の1925年に第10代横浜市長となった。有吉のもと、地元政財界のほか市民も加わって資金をかき集め、震災直後は“テントホテル”と揶揄されていた外国人向けホテルを蘇らせたのだ...
神戸の水は外洋を航行する船乗りに「赤道を越えても腐らない」といわれた神戸の水は、なぜおいしいのか。その陰には神戸港の船舶用水の給水事業を一手に引き受けていた民間会社があり、その事業を買収した神戸市の水事業に賭けた意気込みがあった。
高野山口周辺に、江戸・明治・昭和初期にかけて「再織」という手法で栄えたものの、やがて潰え、そして平成、令和に向けて復活を遂げた伝統産業がある。高野口パイル織物だ。起死回生にはどんな対応があったのか。地場中小事業者の伝統と革新の道筋を見る。
愛知県知多半島にある半田赤レンガ建物は半田市のランドマークともいえる建造物。文化庁登録有形文化財、経産省認定近代化産業遺産に指定された半田市指定景観重要建造物の第1号でもある。東海地区を代表する産業遺産だが、実は数奇な運命をたどってきた。