罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所なきなり

 渋沢翁は、この「罪を天に獲れば」を、ムリなことをして不自然なことをしてしまうことだと解釈しています(論語・巻第二・八佾第三 十三)。

 衛という国の政治家(大臣)は孔子に、あることわざについて質問をします。

「応接間の神様に祈るより、竈(かまど)の神様に祈れ、ということわざは、どう考えればいいのでしょう?」

 これは、飾りに過ぎない王に詣でるより、実権を握る大臣に会ったほうがいい、という喩えなのです。

 すると孔子はこう答えたそうです。

「そのことわざは間違っている。もし、罪を天に獲れば、どの神に祈ってもムダだよ」

 この「罪を天に獲れば」を、渋沢翁は、ムリなことをしている、不自然なことをしてしまうと受けとめたのです。

 人の道があるとすれば、堂々とその道を進むべき。小手先の計略(王をないがしろにして大臣と組む、といった)は、ムリなことをしているのではないか、不自然なことを押し通そうとしているのではないか、と考えるわけです。

 論語には「天」が何度か出てきます。渋沢翁は「天命」と解釈します。この世にある人、生物、万物は、それぞれに意味を持ち、その天命をまっとうするために存在するのだ、と考えたのです。人には人の天命があり、天命に沿わないことをすれば、それはムリなこと、不自然なことなのだ、と考えたわけです。

そのプランに不自然さはないか(SergeyNivens/iStock)

 天をどう解釈するかという議論は置いておいて、M&Aでも、この孔子の考えはきっと生きてくるはずです。

 ムリを通すために、計略を考えたとしても、それが人の道としてどうなのか、といったより大きな基準から見て判断しなければいけません。

 孔子の時代にコンプライアンスという言葉はなかったでしょう。現代のような法律も仕組みもなかったのです。

 でも、人の動く原理は、2500年前といまと根本ではそれほど大きく変わっていないはずです。

 ムリがどこにかかっていて、その不自然さによって最悪の場合になにが起きるのか。

 それを予見できないとすれば、誰に祈ったところで成功はおぼつきません。ムリがあるならムリのないように、不自然さを感じたらその原因を取り除いていく繊細さも必要です。

 あの人に話をしてもダメなので、この人と組んで進めてしまおう、などといった安直な考えは、のちのち大きなトラブルに発展する可能性があるわけです。ダメだとしても、話を通すべき人からまず通していかなければなりませんし、ダメな理由をしっかり分析して対処しなければならないでしょう。

 安直な方法で失敗する経験は誰にも多少はあるはずで、「やっぱり正攻法だなあ」と感じていることも多いはずなのですが、「今期中に!」とか「いまだからこそ」といった焦りから間違った方向に舵を取ってしまうこともあるはず。ムリ、不自然は、いい結果に結びつかないのだとあらためて自分に言い聞かせることも大切です。

 この連載では、渋沢翁をはじめさまざまな論語から学んでいる先人たちの考えをたぐり寄せながら、いま、M&A、そして私たちにとって大切なことを考えていこうと思っています。

※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています

文:ライター・行政書士 舛本哲郎