そのプロセスにムリはないか?|M&Aに効く論語1

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byryo/iStok

獲罪於天 無所禱也

罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所なきなり

論語のスゴイところ

 M&Aを語ろうというのに、なぜ『論語』なのでしょうか。「いまさらじゃないか? 古すぎるんじゃない?」と言われるかもしれません。

 多くの人は勉強の一環で『論語』に少しは触れているはず。いまさらここで紹介するまでもなく、2500年も前の中国・春秋時代に生きた孔子の言葉を弟子たちがまとめていったものです。3000人ともいわれる弟子たちによって教団がつくられ、『論語』はそのテキスト、いわば「聖書」であり「教典」なのです。

 なにがスゴイといって、第一は、タイトルがスゴイ。孔子がつけたわけではないのです。たとえば孟子の書物は『孟子』と題されていますが、それなら『孔子』でいいと思うものの、そうはならなかった。つまり、タイトルなどなくても絶対的な存在感を持っていたのです。生まれた段階で唯一無二の本と考えられていたからだといえます。

 第二に、孔子がみずから執筆したのではないこと。

 松下幸之助の語録、稲盛和夫の語録のように、さまざまな場所や場面で発せられた名言をまとめた本は、いまも私たちにとって学ぶことが多いものです。

 自分で書くのではなく、多くの弟子たちの情熱によって選別され、まとめ上げられたところに価値があります。

 このスゴさ、孔子の言葉に秘められたパワーは、長く中国はもちろん、17世紀には欧州に伝わって、当時イギリスからはじまった啓蒙思想に大きな影響を与え、今日までさまざまな面で影響を与え続けているのです。

渋沢翁は知っています

 日本でも長く漢文の教育として、道徳教育のテキストとして活用されおり、現在でも中学、高校ではテストに出ます。みなさんも、きっとテスト対策として要点を学んだ記憶があるはず。「子曰く」とくれば、もう『論語』となるわけです。

 だからこそ「なんでいまさら」と思ってしまうのも仕方がないことです。

「ビジネスならむしろ『孫子』や『五輪書』じゃないか?」

 もちろん、それもいいのですが……。

 いまなお、多くの経営者たちは、『論語』を大事にしています。その源は、渋沢栄一に遡ります。日本の産業を育てた父とも言われる渋沢栄一は、論語に基づいた経営を実行していました。

 名著『論語と算盤』にあるように、経営や経済(算盤)と道徳(論語)は関係ないだろうと思われがちですが、渋沢栄一はズバリ「自分の算盤は論語でできている」と言うのです。そして算盤と論語は遠いようで近いものだと。融合させなければならないのだ、と。

 なぜなら、経営で相手にするのは人だからです。

 算盤で弾かれる数字を生み出しているのは、すべて人です。社員、顧客、家族、ありとあらゆるステークホルダー、そこにいる人々。結果としてそれは数字で表されるのですが、数字だけを見ていたのでは経営はできません。

 経営は人を見なければできません。その結果として数字なのです。その逆はありません。

 M&Aは、事業と事業、経営と経営の関係の中で生じる動きであり、多くの経営数字が飛び交う世界です。でも、その数字はすべて人によって生み出されたものであることを忘れてはいけないのです。

罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所なきなり

 渋沢翁は、この「罪を天に獲れば」を、ムリなことをして不自然なことをしてしまうことだと解釈しています(論語・巻第二・八佾第三 十三)。

 衛という国の政治家(大臣)は孔子に、あることわざについて質問をします。

「応接間の神様に祈るより、竈(かまど)の神様に祈れ、ということわざは、どう考えればいいのでしょう?」

 これは、飾りに過ぎない王に詣でるより、実権を握る大臣に会ったほうがいい、という喩えなのです。

 すると孔子はこう答えたそうです。

「そのことわざは間違っている。もし、罪を天に獲れば、どの神に祈ってもムダだよ」

 この「罪を天に獲れば」を、渋沢翁は、ムリなことをしている、不自然なことをしてしまうと受けとめたのです。

 人の道があるとすれば、堂々とその道を進むべき。小手先の計略(王をないがしろにして大臣と組む、といった)は、ムリなことをしているのではないか、不自然なことを押し通そうとしているのではないか、と考えるわけです。

 論語には「天」が何度か出てきます。渋沢翁は「天命」と解釈します。この世にある人、生物、万物は、それぞれに意味を持ち、その天命をまっとうするために存在するのだ、と考えたのです。人には人の天命があり、天命に沿わないことをすれば、それはムリなこと、不自然なことなのだ、と考えたわけです。

そのプランに不自然さはないか(SergeyNivens/iStock)

 天をどう解釈するかという議論は置いておいて、M&Aでも、この孔子の考えはきっと生きてくるはずです。

 ムリを通すために、計略を考えたとしても、それが人の道としてどうなのか、といったより大きな基準から見て判断しなければいけません。

 孔子の時代にコンプライアンスという言葉はなかったでしょう。現代のような法律も仕組みもなかったのです。

 でも、人の動く原理は、2500年前といまと根本ではそれほど大きく変わっていないはずです。

 ムリがどこにかかっていて、その不自然さによって最悪の場合になにが起きるのか。

 それを予見できないとすれば、誰に祈ったところで成功はおぼつきません。ムリがあるならムリのないように、不自然さを感じたらその原因を取り除いていく繊細さも必要です。

 あの人に話をしてもダメなので、この人と組んで進めてしまおう、などといった安直な考えは、のちのち大きなトラブルに発展する可能性があるわけです。ダメだとしても、話を通すべき人からまず通していかなければなりませんし、ダメな理由をしっかり分析して対処しなければならないでしょう。

 安直な方法で失敗する経験は誰にも多少はあるはずで、「やっぱり正攻法だなあ」と感じていることも多いはずなのですが、「今期中に!」とか「いまだからこそ」といった焦りから間違った方向に舵を取ってしまうこともあるはず。ムリ、不自然は、いい結果に結びつかないのだとあらためて自分に言い聞かせることも大切です。

 この連載では、渋沢翁をはじめさまざまな論語から学んでいる先人たちの考えをたぐり寄せながら、いま、M&A、そして私たちにとって大切なことを考えていこうと思っています。

※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています

文:ライター・行政書士 舛本哲郎