2021年9月7日、米ペイパルによるペイディ(港区)の買収が報じられました。買収額は3,000億円と、国内スタートアップのM&Aとしてはおそらく過去最大級の規模になると思われます。
このコラムでは前稿に続き、この買収額3,000億円が「高いか安いか」について分析します。
実は、米ペイパルによるペイディの買収が日本で発表される1か月前の8月2日、後払い決済サービス(BNPL;Buy Now Pay later)案件で超大型買収が発表されていました。それが、絶大なカリスマ的人気の起業家、ジャック・ドーシー氏(ツイッターの創業者)が率いる米国の巨大決済スタートアップ企業「スクエア(Square)」によるオーストラリアのBNPL企業「Afterpay」の買収です。
発表された買収額は約290億米ドル(但し負債を含む企業価値ベース)。1$=110円で換算するとおよそ3.2兆円、買収方式は全額株式交換です。
Afterpayの買収は、2022年1-3月期に完了する見通しと発表されています。買収の発表後、Afterpayの株価はさらに上昇し、執筆時点(10月4日)での時価総額は約345億ドル(110円で換算すると約3.8兆円)です。
これに対して、Afterpay社の2021年6月期通期売上収益は836百万ドル。つまり、買収の事実を織り込んだ現在のAfterpayの評価額は、PSR(株価売上高倍率、Price to Sales Ratio)が約41倍となります。
PSR指標で評価する理由は前回の記事をお読みください
・時価総額/売上高倍率(PSR)を用いて評価する理由
ペイディは、ここ1年間で、恐らくペイパル社以外も含めた複数の買収候補者の買収提案を受けつつ、並行してIPOを検討するプロセスを走らせていたと思われます。
ペイディにとって僥倖だったと考えられるのは、そうしたタイミングで、これ以上ないM&Aの取引事例が、完璧ともいえるタイミングで実現したことです。
M&Aの取引価格を類似会社の株価水準と比較する手法(類似会社比準法)では、上場企業の市場株価水準をベースに評価対象企業の企業価値を評価します。しかしこれよりも説明力のある手法として、取引事例比較方式があります。それは、検討している案件と類似する「実際に成立したM&A」の条件を比較して判断する方法です。
当然ですが、「市場で流通している株式の時価総額」と「M&Aが成立する価格」は異なります。従って、取引事例比較法は、類似会社比準方式よりも、より理想的といえます。
しかし、現実に難しいのは、事例として採用できるような「理想的なM&A事例」は、普通まず存在しないということです。成立時期が古すぎてもダメ。事業内容が異なっていてもダメ。仮にそれらをクリアしていても、詳細非開示案件(非上場案件)では分析しようがないのでダメです。
ところが、ペイディにとって、スクエアによるAfterpayの買収は、比較するM&A事例として、とても理想的なものでした。
両者はそれぞれ、米国、オーストラリアで上場している企業であり、財務情報は当然開示されています。Afterpayは誰もが認めるBNPLの超有名企業であり、事業内容も完全に合致しています。従って、このAfterpay案件の成立価格水準である「PSR 41倍」がペイディ案件の交渉にも大きく影響を与えたことは想像に難くありません。
では実際に、ペイディの買収額(100%株式価値ベースで3,000億円)は、PSRで見た場合どの位の水準だったのでしょうか。
流動資産回転率を用いてペイディの売上収益を推計する
ペイディは非公開企業ですから、買収成立前後の正確な売上収益は不明です。しかし、ペイディは決算公告開示対象企業であるため、限定的ですが貸借対照表(BS)は開示されています。
ペイディの事業は「決済代行」ですから、消費者の支払いを一定期間立替え、その間、短期債権がBSに計上されています。この短期債権と売上高の関係性(短期債権 / 売上収益)は同業他社と類似しているはずです。
残念ながら、ペイディの直近の決算公告(第14期-令和2年12月期)では、流動資産の総額しか開示されていないため、今回は流動資産倍率(流動資産 / 売上収益)を用いてペイディの売上収益を推計してみましょう。
上場類似会社の流動資産/売上収益倍率は、「2.57~3.04倍」
まず、BNPL領域の上場類似会社の流動資産倍率を算定します。
BNPL領域で上場している著名な企業としては、既に述べたAfterpayのほかに、米国のAffirm Holdingsがあります。Affirmは、ペイパル創業者の1人、元CTOのマックス・レヴチン氏が率いるBNPLスタートアップです。いわゆる「ペイパルマフィア」の中心人物の一人といっていいでしょう。
AfterpayとAffirmの「流動資産 / 売上高倍率」は下記表のとおりです。
ペイディ社の売上収益を推計する
次に、ペイディの売上収益を推計します。ペイディの第14期(令和2年12月31日)決算公告内容は以下の通りです。
資産の部
流動資産:22,564百万円
固定資産:335百万円
負債の部
流動負債:6,770百万円
固定負債:6,185百万円
株主資本
資本金:90百万円
資本剰余金:15,928百万円
利益剰余金:▲6,099百万円
その他利益剰余金:▲6,099百万円
(うち、当期純損失):5,482百万円
新株予約権:26百万円
純資産合計:9,945百万円
負債・純資産合計:22,900百万円
ここで、ペイディの流動資産 22,564百万円 をAfterpay社の流動資産/売上高倍率「3.04倍」で割ってみましょう。すると 22,564百万円 / 3.04倍=7,422百万円となります。つまり、14期のペイディの売上収益は、約74億円と推計されます。
この74億円という推計値を用いることで、今回のペイディ案件の買収額3000億円が、PSRでどの程度の水準になるか試算することが可能になります。
PSRの計算式は次の通りです。
「PSR=時価総額(株価 × 発行済株式数)/ 年間売上高」
PSR=3,000億円 / 74億円=40.5倍
あくまでいくつかの仮定を置いた上での推計にすぎませんが、ペイパルによるペイディ買収と、スクエアによるAfterpayの買収は、ともにPSRでほぼ41倍程度の価格水準だったという推論結果になります。
次に、Affirmの流動資産倍率「2.57倍」を用いて、同様の計算をしてみましょう。結果は以下の通りとなります。
PSR=3,000億円 / 87.8億円=34倍
筆者としては、こちらの数値の方がより説得力があるように感じられます。なぜなら、ペイディは12月決算であり、ディールが成立した時点で、公告が開示された2020年12月末からすでに9カ月以上経過しているからです。
ペイディが非常に高い売上高の伸びを実現していることは確実視されるため、この9カ月の間に売上がさらに拡大していることは容易に想像がつきます。
PSRは、採用される売上収益が大きいほど小さくなる数値ですから、LTM(直近12カ月売上高)ベースでのPSRは恐らく30倍~35倍だったのではないかというのが筆者の想像です。
つまり、ペイディの「買収額3,000億円」は十分説明がつく、というのが本稿の結論です。
「利益なき成長企業」が高い評価を受けることに釈然としない方も多いのではないでしょうか。そのような方に向けて、日本型と米国型の企業戦略の違いも踏まえた上で、次稿でお話ししたいと思います。
文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)
IGNiTE CAPITAL PARTNERS株式会社 (イグナイトキャピタルパートナーズ株式会社)代表取締役/パートナー
投資ファンド運営会社において、不動産投資ファンド運営業務等を経て、GMDコーポレートファイナンス(現KPMG FAS)に参画。 M&Aアドバイザリー業務に従事。その後、JAFCO事業投資本部にて、マネジメントバイアウト(MBO)投資業務に従事。投資案件発掘活動、買収・売却や、投資先の株式公開支援に携わる。そののち、IBMビジネスコンサルティングサービス(IBCS 現在IBMに統合)に参画し、事業ポートフォリオ戦略立案、ベンチャー設立支援等、コーポレートファイナンス領域を中心にプロジェクトに参画。2013年にIGNiTE設立。ファイナンシャルアドバイザリー業務に加え、自己資金によるベンチャー投資を推進。
横浜国立大学経済学部国際経済学科卒業(マクロ経済政策、国際経済論)
公益社団法人 日本証券アナリスト協会検定会員 CMA®、日本ファイナンス学会会員
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