名古屋電鉄市内線の市営化の手続きは1922年6月5日に完了し、8月1日をもって市内線は名古屋市電気局の経営となった。名古屋電鉄は9月27日に臨時株主総会を開いて事業譲渡と解散手続きの経過を報告し、1894年6月の設立認可以来28年間の経営に幕を閉じた。

美濃電気軌道の合併と名岐鉄道への社名変更

1909年11月に美濃電気軌道が設立された。出資者は地元の有力者であったが、取締役社長には才賀電気商会の才賀藤吉が就任し、1911年2月11日に岐阜駅前~今小町間の複線と神田町~上有知間の単線を開業した。しかし、1911年4月からは名古屋電気鉄道の上遠野富之助、跡田直一が取締役に就任し、冨田重助が相談役となった。美濃電軌は、こうして名古屋電鉄の傘下に入ったのである。

美濃電軌は、開業以来積極的に路線を延長し、同業他社の合併を進めてきた。そして、1918年からは電気供給事業を兼営し、沿線9か村に電力を供給するようになった。しかし、昭和初期には恐慌の影響で経営が悪化しただけでなく、乗合バス事業への進出が遅れたため、岐阜市が市営バス事業を計画すると窮地に追いこまれた。

名古屋と岐阜を結ぶ重要な路線に(L'Alpe-d'Huez)

一方で、名古屋電鉄は名古屋~岐阜間を鉄道で直結することをめざしていたので、美濃電軌は1930年3月に仮契約書に調印し、名古屋電鉄との合併に踏み切った。しかし、この合併に対し、岐阜市会は強く反発し、『美濃電気軌道株式会社株主諸君に告ぐ』を著わして反対した。

美濃電軌の株主は、合併賛成派と反対派に分かれて激しく対立したが、1930年4月の臨時株主総会合併承認の議決がなされた。合併後の1930年9月、名古屋電鉄は社名を名岐鉄道と変更し、旧美濃電軌の社長であった松久正博を取締役、箕浦宗吉を監査役に選任した。

また、岐阜市に対して長良川ホテルの建設費として10万円の寄付をし、岐阜市がバス事業の計画を中止し、名岐鉄道が市内バスを運行できるようにした。

なお、美濃電軌の系列会社で会った谷汲鉄道、各務原鉄道、竹鼻鉄道の3社も、名岐鉄道の傘下に入った。