鉄道会社の資本移動の歴史【その5】

西武鉄道の成立 武蔵野の台地に王国を築いた堤康次郎(前編)

西武鉄道は、東京都北西部から埼玉県南西部にかけて路線網を張りめぐらす関東地方の有力な私鉄で、1946年11月の武蔵野鉄道と旧西武鉄道との合併によって成立した。西武鉄道で最も古い路線は、旧西武鉄道の原型となった川越鉄道である。したがって自社の歴史をできるだけ長くしたいという通念からすれば、川越鉄道が設立された1892年8月5日を設立記念日とすべきところである。だが、西武鉄道は武蔵野鉄道が設立された1915年4月15日を設立記念日としている。

武蔵野鉄道と旧西武鉄道との合併劇を主導したのは、箱根土地(のちの国土開発興業、コクド)を拠点に箱根や軽井沢、あるいは東京市内外で目白文化村、大泉学園都市、国立学園都市などの土地開発を進めてきた堤康次郎であった。堤康次郎による武蔵野鉄道と旧西武鉄道の合併劇について、前編と後編の2回に分けてみてみよう。

飯能町の利害に根ざした武蔵野軽便鉄道

1911年2月、平沼専蔵ほか74名の発起人が、巣鴨~飯能間約40.2kmの武蔵野軽便鉄道の設立認可を申請した。資本金は75万円であった。明治期の飯能町では、東京から秩父大宮にいたる県道のルート選定をめぐって、吾野・正丸峠経由とするか、名栗経由とするかで激しく対立していた。

平沼が武蔵野軽便鉄道の設立を企てたのは、こうした飯能町の住民の対立を解消するためでもあった。平沼は飯能町の出身で、横浜に出て貿易商を営み、横浜銀行の頭取となるなど実業家として成功していた。

飯能町は、埼玉県西部では川越町に次いで、所沢町や入間川町と並ぶ経済的地位にあり、木材、砂利、織物などを産出していた。平沼は、「マア汽車を引いて見ろ見ろ(原文「見ろ」は繰り返し記号)吾野も名栗も皆仲よくなる、あれだけある木材木炭の運搬が自由自在になる。兎に角町内の有志に咄なせ、平沼専蔵が半分背負ってやる」(若松国士太夫自作・自演『武蔵野鉄道開設由来記』1927年)といって、飯能町の有志に鉄道の敷設を勧めたといわれている。

事実、武蔵野鉄道の発起人をみると、埼玉県入間郡の在住者が最も多く、ついで同県秩父郡や東京府下の沿線住民であった。武蔵野鉄道の敷設計画は、飯能町のきわめて地方的な利害に根ざしていたものといえる。

天覧山から現在の飯能市を望む