かつて、名将三原脩監督が率い、稲尾和久・中西太・大下弘・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの名選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた、めっぽう強いプロ野球の球団があった。福岡市の平和台球場を本拠地とする「西鉄ライオンズ」である。

この西鉄ライオンズの親会社である西日本鉄道は、北部九州を営業基盤とする九州電気軌道、九州鉄道(現在のJR鹿児島本線の母体となった九州鉄道ではない)、博多湾鉄道汽船、福博電車、筑前参宮鉄道の鉄軌道5社が合併することによって1942年に誕生した。この西日本鉄道の成立に至る資本合同の歴史を、『西日本鉄道七十年史』『西日本鉄道百年史』などを参考に探ってみよう。

西鉄の5社統合は第二次世界大戦のさなかに行われた。戦局は北部九州における5社統合にも、大きな影響を及ぼすこととなる。

一元的統制のため動き出した九州の鉄道王

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、これを契機に日中戦争が本格化した。1938年4月には国家総動員法が公布されるが、この年には同時に陸上交通事業調整法が公布され、8月に施行されている。

陸上交通事業調整法は、交通調整を実施する地域として、東京市およびその周辺、大阪市およびその周辺、富山県、香川県、そして福岡県を指定していた。東京市、大阪市などでは地域ブロック別に交通事業者の統合が進んだが、北部九州でも民間交通事業者を一社に統合しようとする動きが進んだ。

一方、1939年4月には電力国家管理法が公布され、日本発送電が発足した。それにともない、九州電気軌道は発電所や送電線などの出資を命ぜられ、電灯・電力供給事業を九州水力電気に委譲し、交通事業に専念することになった。電灯電力供給事業は、九州電気軌道の運輸収入の3倍以上に及んでいたので、経営面では大きな痛手であった。

村上家は代々、医家と知られ、その医院は「村上医家史料館」として保存されている。

1940年10月、東邦電力は配電事業の一元的統制のため電鉄部門を整理した。九州電気軌道は福博電車の株式4万株、九州鉄道の株式10万株を東邦電力とともに肩代わりした。同社の社長は中津藩の藩医である村上田長の四男として生まれ、西日本鉄道の初代社長となった村上巧兒である。

村上は福博電車の取締役となり、その後41年6月に社長となった。また、1941年1月には九州鉄道の取締役となり、翌42年2月には進藤甲兵の死去にともない社長となった。こうして村上は、九州電気軌道、福博電車、九州鉄道の社長を兼任することになったのである。